ここにご紹介するお話 "Sun Horse, Moon Horse" は、ケルト世界を舞台に数多くの児童文学を残したローズマリー・サトクリフの作品の中でも、最もサトクリフらしく最も児童文学らしい作品です。

生涯のほとんどを車椅子で過ごしたサトクリフにとっての"魂の自由"が描かれた傑作であるこの作品を、恐いもの知らずの水野暢子がRed Fox Bookのペーパーバック版を原典として訳しました。

 

なお、灰島かりさんの訳でほるぷ出版より刊行されている『ケルトの白馬』(ローズマリ-・サトクリフ 著)とは、日本語表現において一切関係がありません。

 


「でもあなたが作るのは、あいつらの馬なんでしょ。」

「ああ、確かにあいつらの馬、アトリベイツの太陽の馬さ。でもそれは月の馬、我ら一族の馬でもあるんだ。こうして森の向こうに丘陵が続き、仔馬の母なるエポナの神に人々が祈りを捧げ続ける限り、ここにイケーニが居たことを知るだろう。」

 

 

著者からの一言

 

英国の丘陵に点在する白い馬の刻印。

そのほとんどが18世紀ないし19世紀に作られたものですが、バークシャーの丘の上にある『アーフィントンの白馬』は、もっとずっと古い時代のものです。

いつ作られたのか正確なところはわかりませんが、おそらくキリストが生まれる100年以上も前と言われています。

丘の上に刻まれた馬の遺跡というのは大抵、ただじっとかしこまっている感じで、時にはお上品な風情を漂わせているものも見られますが、いずれにしても少しも生命の息吹というものが感じられません。

ところが『アーフィントンの白馬』は実に不思議。

躍動感と力強さと美しさに満ち溢れているのです。

 

私は常々、不思議なものにはそれにまつわるお話があると思っています。

心から話して聞かせたくなるような、長い間忘れ去られていた物語が・・・。

そんなある日のこと、T.C.レスブリッジの『魔女』という本を読んでいると、ごく早い鉄器時代に存在した部族であるイケーニ族が、英国東部だけでなくテームズ上流渓谷の北、チルターンズや丘陵地帯にも、南からの侵略者たちによってそこを追われるまで住んでいたという説に出会いました。

その時、物語がどのようなものであったかのアイディアが浮び始めました。

 

そして出来上がったのが『太陽の馬 月の馬』です。

 

レスブリッジ氏によれば、追われた部族イケーニが、アーガイルやキンタイアのエピディになったということです。

 

エピディもイケーニも、共に「馬の民」という意味であるからです。

もしそうならば、ルブリンの部族は無事北の牧に辿り着いたことになり、私の書いたお話もハッピーエンドとなるわけです。

 

もし読者の中に、マーカスとエスカが失われた軍団の旗を取り戻すために北へと向かった『第9軍団のワシ』の冒険をすでに読まれた方がいて、ルブリンの部族がマーカス達が出会ったエピディとはあまり似ていないと思われたなら、それは私がお話を書いた時点ではまだ『魔女』を読んでいなかったということなのです。

もし読んでいれば、もう少し違った風に描いていたことでしょう。

でも、もちろん200年以上も経過する中で、彼らはずいぶん変化したのだともいえるかもしれませんね。


第1章 まぼろしの白い牝馬

(1)

 

草なびく丘陵地帯、そのみどりのうねりの一番の高みには『堅き所』と呼ばれる茶色の丘砦が、まるで低く身構えた獣のようにありました。

 

材木で補強された芝土の堤が三重にその丘砦を囲み、白亜層のむきだしになった広い堀がその外周を巡っていました。

 

守りの弱点となりがちな門への通路も、内と外の堤が組み合いながら重厚な木の門へと連なっているので、敵が攻め込もうとしても、左右から守備隊がやりと投石をあびせられるようになっていました。

 

はるか遠い北東の地。

その大草原にいた部族の女王の末の男子が、若者達を従えて自分達の新たなる土地を見つけようと、どの世界の若者にもありがちな勢いで、妻と子供と馬の群れを引き連れてこの丘陵地帯にまでやってきて以来、もう5世代に渡り『堅き所』はそこにあり続けたのです。

 

彼らはイケーニ(馬の民)という名の、馬を飼育し調教する民でした。

彼らにとっての富は金ではなく、種馬や粗毛のニ才馬、子をはらんだ牝馬やニ輪戦車の訓練をつませた馬でした。

 

新たなる牧をここ『白亜の丘陵』に見いだした彼らは、先住の『暗き肌の民』を追いやり『堅き所』を築いて、何年かの間は一族全員が塁壁の内側で暮らしていました。

 

しかし今では、先住の民は征服者たちに目立たぬように再び元の生活を営み、動乱の時代は過去のものになりつつありました。

 

夜襲を受けた月明りの晩には、一族全員と若い馬、そして時には先住の民までもが塁の内側に避難して、その間に馬飼いは牛や馬の残りの群れを下手にある森に隠しました。

しかし平穏な時には、人々はたいがいもっと低くて身を隠しやすい斜面や谷あいの林を開墾して生活を営んでいました。

 

秋ともなれば、見張り番小屋ははらんだ牝馬の出産小屋となりました。

 

族長のティガナンの立派な木造の館は、依然として風吹く丘の上に建っていました。馬小屋や牛小屋や、その世話人たちの小屋がその周りに集まり、族長付きの戦士たちや、竪琴弾きや闘士、祭司たち、そして族長や戦士や馬に必要な道具を作る職人たちの住む番小屋もありました。

 

族長ティガナンには、裏手にある女の館に住む妻サバとの間に3人の息子がおりました。

 

上の二人はブラッチとコーフィルという名の双子で、下のルブリンとは2才違いでした。

浅黒い肌色のルブリン・デュは、生まれた時からすでに黒い髪が生えていて、初めて開いたその瞳は似合わないほど大人びて見えました。

 

一族には、まれにこのような赤ん坊が生まれることがありましたが、征服した民の血と先住の民の血とがやがて混ざり合うことは世の常なのです。

 

ルブリンの母は、生まれたその子を見てこみ上げるものを抑えきれず、涙を流しました。

彼女自身は一族の女達と同じクリーム色の肌と赤銅色の髪をしていましたが、その暗き色は紛れもなく自分が伝えたものだったのです。

他の子たちなら決して煩わされることも理解することもないであろう喜びや悲しみ、そして夢を、この子が抱くことになると母は予感したのでした。

 

とはいえ、ルブリン・デュの幼少期は、猟犬の仔犬や同年の子らと父の館の入り口辺りを転げ回って、幸せいっぱいに過ぎていきました。

(2)

 

5才の夏の暑い日、ルブリンは仔犬と馬小屋の中庭で遊んでいました。

 

しばらくすると仔犬は飽きた様子でふらりとどこかへ行ってしまい、ひとりしゃがんだままその場に残されたルブリンは、仔犬のいなくなった後の静けさの中でふとツバメが飛び交っているのに気がつきました。

 

それは馬小屋の軒先きに巣をかけたツバメたちでした。

 

舞い昇る羽虫の群れを横切り矢のように低く飛んだかと思うと、今度は空に向かって掃くように、すくいとる様に、そしてその繰返す軌跡を織り込むように飛んでいるその文様が、ルブリンには見えるように思えました。

でも、それはあまりに速く変わってしまいます。

 

消えてしまうその文様をなんとかして手にしたい・・・。

 

ツバメの暗い翼が鎌のひと振りのように描くものを、いつしか地面に指でなぞろうとしましたが、まるで生き物をつかみ取ろうとするかのよう。

 

あまりに速くて、速くて、何度試みても捕らえることが出来ません。

 

中庭の上手では、父の戦車使いのユーリアンが、二輪戦車置き場の壁に立て掛けられた狩り用戦車を1台降ろして、二頭の赤毛にくびきをつないでいました。

 

二頭はそわそわと左右に足を踏みならし、頭を振り上げ、尻尾をシュッシュと振りました。

 

「ほらほら、落ち着くんだ兄弟! 初めて雷のにおいを嗅いだというわけでもなかろう?」

 

いつものルブリンなら、そんな彼らのそばへとできる限り近づこうとしたことでしょう。

 

ユーリアンは気難しい馬たちに関わっている間は足元の子供達を気にもとめないので、戦車を牽くポニーが大好きなルブリンは、中でも最高の赤毛の二頭組を心ゆくまでながめるのです。

 

でも今は、サッと方向を変えては頭の上を矢のように飛び交うツバメたちの描く文様を、青い宙に消えてしまう前になんとかとらえようと夢中でした。

 

馬小屋の中庭にやってきた父ティガナンが戦車に飛び乗り、待ちかまえた戦車使いから手綱を受け取ると赤毛の二頭組を門へ向かわせたことにも気がつきませんでした。

 

ルブリンはあることを思いついていたのです。

 

誰かが寝床用にと下手の森から運ぶ途中で落っことしていったカバの木の細長い小枝が、すぐそばの白い地面にありました。

 

黄色く色づいた3枚の葉がついている枝。

これを使えばいい。

あの中から1羽を選んでその後を素早く追うんだ。

どんなに向きを変えても追っていって、このカバの小枝で地面に線を引いていけば・・・。

それを何度も何度もやれば・・・。

 

ルブリンは小枝を拾い上げて位置につくと、上の方をじっと見つめました。

 

おりから1羽のツバメが巣を飛び立ち、ちょうど真上をすり抜けたので、急旋回したり矢のように飛んだりするそのツバメを、ルブリンはずっと上を向いたまま追いかけました。

 

後ろ手に握った小枝は地面の上をはずみながらついて行きます。

 

でも、あっという間にどのツバメを追っていたのかわからなくなってしまいました。

 

その時でした。

突然ルブリンの眼前に、鼻息も荒く口を開き、たてがみを炎のごとく振り乱したポニーの頭がせまってきました。

 

ひづめにのしかかられる寸前、手綱が引かれて馬は横にそれました。

 

恐る恐る戦車を見上げると、そこには父の怒った顔がありました。

 

「お前はいったい、そこで何をしていたのだ?」

 

ティガナンはそう問いただすと、驚いている馬たちをなだめました。

 

ルブリンは立ち上がると、族長の怒った眉間のあたりに目をやりました。

 

ツバメの編んでいる文様をつかもうとしていたことなど、うまく説明できっこないとわかっていたので、ただ

 

「ツバメになってみたんだ。」

 

とだけ言いました。

(3)

 

「危うくツバメの死骸になるところだったぞ。それに、私の馬をこんなに驚かせてしまった。」

 

ルブリンを戦車の行く手からどかそうと急いで駆け寄った戦車使いに、ティガナンは後ろに下がっているようにと合図しました。

 

ルブリンは黙っていました。

何を言えば良いかわからなかったのです。

父と息子は互いに見つめあいました。

 

ルブリンは、それまで父親のことをあまりよく知りませんでした。

ただ大きくて、強くて、立派で、恐ろしい、まるで雷雲と強い陽射しが合わさったような、そんな存在として意識の端に感じていただけでした。

 

しかし今、怒りながらも青ざめた面持ちでこちらを見つめている族長ティガナンを初めて目の当たりにして、この人はやっぱり僕の父さんなんだ、普通のお父さんと同じなんだ、そうわかって安心したのでした。

 

ここちのよい発見でした。

 

ティガナンもその時、同じ様な心持ちでいました。

 

族長は自分の3番目の息子を、こがね色の寝わらの中にいた浅黒いチビを、この時初めてしっかりと見つめたのです。

 

父はふと心が温かくなるのを感じました。

 

こいつは面白いやつだ。

 

馬のひづめに踏みつぶされそうになったのに、悲鳴ひとつあげなかった。

 

そのうえ、まだ戦車の車輪よりも小さな背たけのくせに、こいつときたら恐れもせず私の目を見返している。

 

「来なさい。」

 

思わずそう口にした父は、

 

「我らは鳥の民ではない。馬の民だ。お前も、この私も。さあ、私と一緒に来なさい。『高き牧』にいる牝馬を見せてやろう。」

 

と言いました。

 

何が起こるのかわからないでいるルブリンを、父はかがみ込んで抱きあげると、隣の席に座らせました。

 

そして手綱をピシッといわせたかと思うと、赤毛組を勢い良く前へと繰り出しました。

 

戦車は丘砦の東門をガラガラと駈け抜けると、白亜の丘の頂きに通じる小道へと逸れていきました。

 

ティガナンが赤毛組の背にピシャリピシャリとむちを入れると、馬たちは全速力で駈け始めました。

 

要塞の丘の大きなうねりを背にして走る戦車の右手には、収穫を待つばかりの大麦が白く揺れている畑が細長く伸びていて、その遥か向こうに青くかすんで見える低地の森までゆるやかに傾斜した大地が広がっていました。

 

左手には、丈の長い芝生が渦巻きながら近くの林へとなびいている北の斜面がありました。

 

戦車は白亜の丘の頂きに沿って、太陽と、雲と、ひばりたちと一緒に駈けていきました。

 

黒いちごや白い小花の潅木の茂みを抜け、小道の脇にひっそりと標(しる)された墓所を通り過ぎて、南へひらけた場所に出ると、いよいよ赤毛組は全力疾走となりました。

眼下には、葉の薄くなった晩夏の芝生が黄褐色の縞となって後ろへ飛び去っていきます。

ひづめと鉄の車輪の音が雷のように世界に響き渡っていました。

ルブリンは、戦車の床に編みこまれている革紐が激しく揺れているのを感じていました。

戦車のあまりの飛び跳ねように、ルブリンは父の隣でぐらつかないようにしていることを諦めて、いかにもどっしりとした父の片足にしっかりしがみついていました。

兄弟のブラッチとコーフィルならばきっと、過ぎゆく風に向かって吼(ほ)えたり歌ったり、雄叫びをあげたりしていたことでしょう。

しかしルブリンは、何も言いませんでした。

父は、こいつは怯えているのか、と半ばあきれた様子で息子を見やりました。

すると実はそうではなく、歓声も歌声もルブリンの中にあるとわかったのでした。

 

その日ルブリンは生まれて初めて、馬飼いがたくさんの群れをある牧から晩夏用の場所へと移動させるのを見ました。

家を離れてこんなに遠くまで来たのも、父が本当に父であることを実感したのも初めてのことでした。

どれもがその日を忘れ難くする思い出でした。

しかし彼にとってその日は、白い牝馬を見た日として心に刻まれたのです。

 

その日は一日中、遠くの空に雷鳴がとどろき、過ぎ行く夏の日の稲光りがきらめいていました。

雷のにおいを運ぶ一陣の生暖かい風が、さんざしの低い藪(やぶ)や草地の上を渡っていきました。

ルブリンの目に、牝馬の群れが尾根ぞいをゆっくりと走っていくのが見えました。

その背後の空には、りんぼくの花のような色と形の雷雲がむらむらと群がり、手前の斜面では芝が強烈な日光を浴びていました。

 

その時です。

 

1頭の馬が群れの先頭に躍り出ました。

あらし雲を背にしたその馬は、さんざしの花や、草の下に埋もれている白亜の大地よりも白いたてがみと尻尾を風になびかせていました。

胸を打つ鼓動を感じたその刹那、暗色の牝馬の群れを従えて走っていた白い牝馬は、織り成す雲の合間から稲妻が一筋落ちた瞬間、白い炎と化しました。

そして、族長の末の息子の心の奥深くに、まるで幼馬に真新しい烙印が押されるように、生涯消えることない印(しるし)を焼きつけたのでした。

 

牝馬は首を振り上げると、不安げに鼻を鳴らして、丘陵のへりの向こう側へと群れを従え走り去りました。

 

と同時に、むちの一振りの様な稲妻がピシャリと光り、やがて空に雷鳴がとどろいたかと思うと、丘陵の深い谷合やくぼ地にドーンとこだましました。

 

ルブリンの父が羽織っていたマントでサッと息子を覆うと、乾いた大地めがけて雨が勢い良く降り出しました。

 

ルブリンが憶えていたのは、しばらくして太陽が再び顔を出し、この世のすべてを照り輝かせたそのことではありません。

 

彼が後々思い出したのは、あのまぼろしのような白い牝馬のことだったのです。


第2章 広間でのけんか

(1)

 

秋の終わりに、ルブリンに妹が生まれました。

祭司は聖なる角笛で『月の呼び声』を鳴らして、丘陵地帯に広がる牧のすみずみまで知らしめました。

その夜、族長の館にある広間では盛大な祝宴が催されました。

 

男の子をもつことは喜ばしいことではありましたが、ルブリンの一族では王と族長の権威は父から息子へではなく、娘を介してその夫へと授けられます。

ティガナンが族長であるのも、元族長の娘、つまり『一族の女』と結婚したからです。

ですから、一族はしきたりに従い、族長に娘が生まれ跡継ぎができたことを祝う宴を催したのでした。

 

いつもの晩であれば、ルブリンは飲み食いが始まる前に女たちの館で、ぶちの羊皮にくるまって眠りに着いていたことでしょう。

でも今夜は特別な夜なので、女たちは皆忙しそうに立ち回り、丘砦の子供はみな猟犬とテーブルの下にもぐりこんでいました。

戦士達が骨や肉の切れっぱしを猟犬に投げ与えたので、子供たちもその分け前にあずかることができました。

ルブリンも、豚肉や蜂蜜がけのあなぐま肉をたらふく食べることができたので、幸せ一杯でした。

 

生まれた娘と、いつの日かその夫になる未だ見ぬ戦士を祝福して、盃が賑やかに酌み交わされました。

 

「東の牧から一族を導きし勇者のごとく!」

 

族長付きの戦士たちはそう叫びながら、特別な祝いの席でなければ口にすることのできない深色の高級ギリシャワインをぐいぐいと飲んでいました。

やがて誰も何も言わなくなった頃、暖炉の前で自分の腰かけに座っていた竪琴弾きのシノックが、黒樫の小さな琴を撫でるようにして、まるで自分の鷹の目を覚まさせ、羽ばたかせようとするかのように音合わせを始めました。

やがて頭を後ろに傾げて謡いだしたのはいにしえの唄、まだこの世界が明けたばかりの頃に一族の若者たちが新たな牧を求めて、女王の末の男子に従って東の草原から旅立ったことを物語る馬追い唄でした。

 

「いざっ」

 

末の男子は言った

 

「たてがみ高く、こころ荒ぶる馬群を従え、

 

行く手を西へと定め、

 

銀の林檎のなる地を目指し、我に続けっ!」

 

馬の蹄は雷(いかづち)のごとく連なる丘を震わせ、

 

戦車の土煙は太陽ヘと舞い上がった

(2)

 

ルブリン・デュは、高テーブルの下から、かき鳴らされる竪琴の弦の上ではね踊る炉火の光をながめていました。

しかし、その時彼の脳裏に映っていたのは、いにしえの唄の詩と音楽が織り成す文様でした。

その文様は、馬の蹄やたてがみが翻(ひるがえ)るリズムを深く、力強く刻み、馬の姿を包むように、優美な音色がまるで雲が紡がれていくように立ち上っているのでした。

それは、あたかも馬の群れの上を小鳥たちがすべるように飛び交っているようにも見えます。

見つめるうちに、ツバメの軌跡を捉えようとしたあの日の熱い思いが蘇ってきました。

 

我を忘れてテーブル下からはい出すと、わらびの敷かれた床の向こうにある炉辺の縁を飾る、むき出しの板石の方へふらりと歩いていきました。

そして炉火に焼かれて炭になった枝を取り上げると、彼の頭の中に見えているものを板石の上に描き始めました。

ルブリンは、形を変えて流れていくものの輪郭を捉えようと夢中になるあまり、ちょうど馬小屋の中庭の時と同じように、自分の周囲のことには気がまわらなくなっていました。

そこは長い梁が渡された広間で、テーブルを囲んだ戦士達の間を、細い注ぎ口のついた銅製のワイン壺を手にした女たちが動き回っています。

頭上の梁のうえにずらりと並べられた、赤や黄色の染料を塗られ、煙りで燻されたかつての敵たちの髑髏(しゃれこうべ)が、屋根の高さまで躍り上がる炉辺の光と塵(ちり)の吹きだまりの中にかすんでいます。

しかしルブリンは、そんなことはもちろん、高テーブルの下にいる兄弟達のこともすっかり忘れていたのでした。

 

文様はそこに現れていました。

他の者が板石の上を覗いてみても、ただもつれ合い波打つ線や点、横線しか見えないかもしれません。

しかしルブリンにとっては、かつてツバメとそうした時よりもその神秘に迫ることが出来たように感じられました。

それは彼が望んでいた何かであり、美しく、そして奇妙ではありますが彼自身の一部でもありました。

 

その時突然、それまで近くにあった蜂蜜ケーキを取り合っていたブラッチとコーフィルが、炉辺の石の上に炭で何かしているルブリンに気づき、覗き込みました。

コーフィルは笑いました。

さげすんで、大口を開けて笑ったので、乳歯が何本か抜けているのや喉の奥までが丸見えになりました。

そして立ち上がったかと思うと、わざと足を床にこすりつけながらルブリンの描いている側を歩いたので、板石の半分はぼやけて台なしになってしまいました。

 

ブラッチが、いつものように双子の相棒の真似をしようとしたその時、ルブリン・デュの中で真っ赤な怒りの花弁が弾け、叫び声と共にコーフィルに飛びかかったので、驚いて後ずさるコーフィルの表情は、ポカンと開いた口はそのままでも、嘲笑は影をひそめすっかり驚愕の色に変わっていました。

ブラッチはすぐさま双子の相方の加勢に入り、双子は互いの間にルブリンを挟んで引き倒すと、その上にのしかかったりげんこつで殴ったり、蹴りつけたりしました。

2対1のうえに2才も年下で、それより何より身体の小さなルブリンでしたが、追い詰められた野生動物のように闘いました。

親指を噛まれたコーフィルは、悲鳴をあげて一瞬ひるみましたが、振り回される手足に向かってまた飛び込んでいきました。

(3)

 

ちょうどその時、4人目がけんかに飛び込んできました。

族長付き戦士の頭(かしら)であるドゥロクメイルの息子ダラが、ブラッチの腹めがけて頭突きを食らわしたのです。

シノックは竪琴の調べを落として、灰まみれになって足元を転げまわる取っ組み合いを、興味深げに見下ろしていました。

やがて武具運びの小姓が2人、その間に割って入り、半ば笑いながらも双方を公平にピシャリと打って仔犬の噛みつき合いを止めさせようとしました。

 

けんかは止みました。

ルブリンの真っ赤な怒りの花はしぼみ、若い戦士に掴まれて立ち上がりながら、激しくあえぎ、怒りと悲しみにすすり泣きそうになっていました。

しかし涙は胸に秘め、外に見せようとはしませんでした。

戦士に驚いて泣き出す子ではありませんでしたし、なにより兄弟の前では泣きませんでした。

 

「なんでまた、犬ころたちはこんなに吼えあっていたのだ?」

 

族長ティガナンはそう問いただしました。

しばらくの間、誰も答えませんでした。

やがてブラッチが口を開きました。

 

「父上、それはルブリンに聞いて下さい。けんかを始めたのはあいつなんだから。」

 

「ルブリン?」

 

族長は金色の眉をぴくりと上げて、末息子の方を振り向きました。

ルブリンは答えませんでした。

父に対して何を説明しても無駄なことは、ツバメの軌跡を捉えようとしたあの日から分かっていたことですが、今回はもっと厄介でした。

 

「僕がシノックの竪琴の唄を描いていたら、コーフィルが台なしにしたんだ。」

 

と言ってみたところで、誰が理解するでしょう?

彼自身、終わってしまった今となってはあの魔法もかき消されてしまい、自分が何をしていたのかさえわからなくなっていたのです。

族長は言いました。

 

「私はそんなに気長ではないぞ。」

 

ルブリンは首を横に振り、

 

「忘れました。」

 

と不機嫌そうに言いました。

 

「そうかね? おまえは、すっかり忘れてしまうほど些細なことのために、この大広間で犬っころのけんかを始めるのかね?」

 

「はい。」

 

ルブリンは言いました。

戦車の外輪越しに見合ったあの時のように、二人は互いを見やりました。

やがてティガナンは黒い牛皮で覆われた玉座に背をもたせ掛けました。

 

「ならば、今回はこれでしまいということだな。しかしこの次は、お前たち、前庭に出て決着をつけるのだぞ。犬っころめ、尻尾に火がつくぞ!」

 

ルブリンの首根っこを抑えていた若い戦士は、親しげにルブリンを軽く揺さぶると手を離しました。

シノックの手が今一度、竪琴の弦の上で動き始めると、再び輝く調べが奏でられました。

シノックの老練な視線は、見逃しませんでした。

コップや盾にまるで風や星や流れる水の秘密を閉じ込めたような素晴らしい円の文様を描き出すゴールトという青銅細工師の、小さく輝いた瞳を。

台なしにされ、半分すり消されてしまった炉石の線が、何を意味するのか、彼らにはわかっていたのです。

そして言葉にこそしませんでしたが、

 

「ここにもう一人、私たちの兄弟がいる。」

 

とうなずきあったのでした。

けれど、そのことにルブリンは気づきませんでした。

彼はダラを見ていました。

ダラは切れた唇を舐めながら、当惑した丸い目でルブリンを見返していました。

 

ダラはコーフィルやブラッチと同じで、何もわかってはいませんでした。

それでもルブリンを助けるため、何もわからないまま飛び込んだのです。

ルブリンもダラも、自分達の中で起きていることを理性で捕らえるにはまだ幼すぎました。

はいはいをしていた頃から、一族の他の子供たちや仔犬たちと一緒になって遊んだりけんかをしたりしていた二人は、今初めて互いが友であることを心の奥底で感じていたのです。

 

ルブリンはダラにニコッと笑いかけ、ダラも誰かの踵(かかと)に蹴られてできた口の傷が痛まないように、そっと笑い返しました。

そして二人は仲良くテーブル下へと戻っていき、猟犬をはさんでしゃがみ込むと、やがて犬の毛にからまっている草の実をとり始めました。

 

彼らの上では、一族を未来へと運ぶ女の子の誕生を祝う宴が、にぎやかに続いていました。


第3章 行商人の土産話

(1)

 

巡る季節の中、一族の暮らしはとどこおることなく営まれていきました。

初夏には牝馬が子馬を産み落とし、秋になると駆り集められた馬たちは焼き印を押され、冬ともなればひょろ長脚の2才馬の調教が始まりました。

 

赤ん坊テレリの誕生を祝う宴で一緒に戦ったあの日から、ルブリンとダラはいつも一緒でした。

仲良しの二人組の容姿は、大きくなるにつれて奇妙なほどつり合って見えました。

金色のそばかすのダラは体格も良く、狼の子のように手足が長かったので、その隣にいるもの静かで小柄、褐色の肌のルブリンは、まるで真昼の短い影のようでした。

もちろん、ルブリン・デュは決して誰の影でもありませんでしたが。

 

「あの子たちは同じ月のもとに生まれたのさ。ヘーゼルナッツの片割れ同士ということさね。」

 

竪琴弾きのシノックは言いました。

 

「そういうことさね。」

 

二人は、狩りをする時も、笑う時も、戦う時も一緒でした。

同じ皿から食事を分け合い、毎晩のように同じ毛布にくるまって眠り、やがて二人は9才になりました。

いよいよ男子の館に入る時が来たのです。

 

毎年、春を告げるベルタンの炎の祭が終わると、前年の祭の後で9才になった一族の男子は皆、族長の前庭の下手に建てられた細長い男子の館に移り住み、戦士としての訓練を始めるのでした。

戦における槍の投げ方や、馬の群れの追い方、狩りの仕方など、学ばなければならないことや身につけなければならない技はたくさんありました。 

剣や槍や投石器の使い方を習ったり、敵の殺し方や口を結んだまま苦痛に耐える方法を覚えたり、馬の群れの追い方や、一才馬の群れの中から焼き印をつける子馬を切り離すやり方を教わるのです。

どの男子も若いうちに戦車使いを経験した後、戦車乗りの戦士となるのですが、まずは戦車の造り方をおぼえて、擦り切れたり壊れた箇所を自分で修理できるようにしました。

それに加え、戦車につなぐ馬たちをならし、調教し、乗りこなせるようにもならなければなりません。

祭司である樫の木のイシュトレスには、皮をはいだ柳の枝に刻まれた呪文の読み書きを学び、シノックの唄からは、そこに込められている一族の歴史を心に刻み込むのでした。

彼らはこれらの全て、そしてそのほかの様々なことがらを、7年という短い期間で習得しなければなりませんでした。

 

「一人前の男になるってのは、本当に骨が折れるなあ!」

 

そう言うブラインは、一番大きくて力持ちの男子でしたが、陽射しの中で寝転がっているのが好きでした。

(2)

 

ルブリンにとって、厳しい修練は何でもありませんでしたが、始まりの2、3年の間彼を苦しめたのは、1人になれないということでした。

男子の館での生活は窮屈で、何をするにも同じ歳の者と一緒でなければならず、眠る場所も建物の一か所にまとめられ、せっかくの自由な時間でさえ、大抵は皆ひと固まりになって駆け回っていました。

ダラは、そういった雰囲気を楽しんでいるようでした。

しかしそれはダラが、鳥の飛ぶ様や竪琴の調べ、大麦畑に吹く風や疾走する馬の群れを捉えたいという胸のうずきとは無縁だったからです。

ですから誰もダラのことを、奇妙な文様を描く奴だと嘲笑(わら)ったりいじめたりしませんでした。

仲間たちはルブリンを笑いました。

自分には理解出来ないものを見ると、いつでもあざ笑ってはばからないブラッチとコーフィルのあとに続くようにして。

まれに笑わないことがあったとすれば、それは無気味さを感じていたからです。

ルブリンにとって、魔法の絵を笑われることほど嫌なことはありません。

ですから、時々こっそりと描く以外は、長いこと絵を描くことはありませんでした。

その間、森の開墾地のはずれに立つ大きな魔女楡(にれ)の木が彼の隠れ家でした。

そこは男子の館に入る前、ダラと一緒に野生の蜜蜂の巣を探している時にルブリンが見つけた場所です。

幹から3本の大枝が伸びていて登りやすく、その梢は牡鹿の角のように四方へ広がっていました。

その枝に横たわれば、森にいる時よりもずっと安心して日常から離れられます。

時々無性に例の奇妙な文様を描きたくなった時には、炭の棒と銀白色の樺の木切れを抱えて(というのも、魔女楡のガサガサした灰色の木肌には描くことができなかったので)そこに登り、魔法に没頭するのでした。

2本の大枝の間にはちょうどよい深さの溝があって描いた物をしばらくの間隠しておくことが出来ましたが、それもやがて風雨にさらされ消えてゆきました。

その他にも1人になりたい時は、お気に入りの枝のずっと先までつたっていって、風に揺られていました。

風の強い時には巨大な暴れ馬に乗っているようでしたし、穏やかな日には木もれ日を浴びながら、丘砦までゆるやかに盛り上がり、そして日の落ちていく方角へなだらかに下っていく広大な丘陵地帯の南向きの風景を、なかば夢見心地で眺めていました。

 

木の上で寝そべっていたある日、ルブリンはおもしろいことに気がつきました。

片方の目をつぶりながら目の前に楡の葉をかざすと、父親が治める世界のすべてを、男子の館も、ブラッチとコーフィルも、塁壁の下に続く芝生の生えた急な斜面も、その全てを覆ってしまうことが出来たのです。

それ自体どうということもない発見でしたが、それに気づいた後では、もう誰かに魔法の絵のことをからかわれてもあまり気にならなくなりました。

 

「楡の葉っぱ一枚で、君たちの全てを隠してしまうことができるんだ。」

 

そう思えたからでした。

そうして少しずつではありましたが、ルブリンがもう気にも止めていないことに気づいた者たちはからかうことをやめ、ルブリンはルブリンのままでいられるようになったのです。

 

男子の館に入ってから三度目の秋も深まった頃、よく仕上げられた獣の皮をポニーに担がせ、黄色いアイルランド産の金で作られた装飾品をあざらしの毛皮の袋に入れた行商人が、北からの道をやってきました。

ティガナンの領地を、多くの行商人が行き来していました。

というのも、芝土と材木で出来た丘砦の防壁の向こうを下っていく高い尾根道と、それに寄り添うように伸びる『馬の民』の道が、南北に横切る古くからの交易の道と交叉していたからです。

行き交っているのはほとんどが馬商人でした。

ティガナン率いるイケーニの民は、それまで自分達のためだけに気の荒い小型馬を調教していましたが、南の地方にポニーを取り引きする市場が出来た今では、商人達が足しげく立ち寄るようになっていました。

それと共に、北の地方からは皮が、『大河』の向こうの雨の森からは鉄製の槍の穂先や黒い塩、ゴールトと鍛冶屋たちが造る世にも美しいワイン用のコップや兜、盾の浮き出し飾りの材料となる青銅の固まりや、細首の壺入りワインが南から、それぞれポニーの荷ぐらの両脇にぶら下げられて運ばれてきました。

(3)

 

行商人の商いは、馬の買い付けだけではありません。

客人の間での食事を済ませると、まず最初に族長とお付きの戦士たちにパドックで休ませていた自分の馬を見せたり、広間の玉座の前にその他の品物を広げて見せたりしました。

翌日には前庭に品物をひろげ、誰もが見たり取り引きをしたりすることができます。

人々ははるばる足を運んで集まってきました。

というのも売ったり買ったりする他にも、行商人が旅の道すがら見聞した新しい出来事を知りたいからでした。

 

男子の館に住むものは族長付きの戦士と見なされましたが、広間で戦士達と共に食事をとることが許されるのは最年長組の者たちだけです。

そんなわけで、他に何も面白いことがない者たちは、最初の晩の食事を行商人が済ませると、商品を見たり行商人の話を聞くためにこぞって大梁の広間へと集まるのでした。

そして運がよければ、まるでたっぷりと肉が詰められた玉子のように旅人の話で満たされ、そらで憶えてしまった竪琴弾きのシノックの物語とは違う新鮮さを味わうことが出来ました。

たまに新しい話を聞くのはいいものです。

 

ルブリンは昼食に食べた羊肉の、肩甲骨の平らな面に、雌鹿の顔をカリカリと削っていました。

そのイメージがどこかへ飛び去ってしまう前に、すばやくつかまえようと夢中になって描いていたので、行商人の話には興味がありませんでした。

ところがダラはルブリンの肩をむんずと掴んだかと思うと、彼をひっぱり上げました。

 

「その絵なら待っててくれるよ。後でも描けるさ。」

 

ダラは羊の肩甲骨をあごで指しながら言いました。

ルブリンはそうは思いませんでした。

もう一度あのイメージをつかめるとはとても思えません。

けれどルブリンは、ダラやその他の仲間達と前庭の中央にある戦士達が武器を研ぐ黒い背高石のそばを通り抜け、広間の開いた入口へと向かいました。

 

炉火と松明(たいまつ)の煙りが混じりあう中、族長は玉座から身を乗り出して、行商人が包みから取り出しては足元の紅色の布の上に置いて見せるあれこれを品定めしていました。

ふつう、北で手に入る毛皮はもっと南の方で高く売れるので、この地でわざわざ取り出されることは少ないのですが、行商人は今回は上等なテンの毛皮と美しい斑のある山ネコの皮を特別に取り出して見せました。

それらがヒグマのもじゃもじゃした毛皮の上に積み上げられると、戦士達やその奥方達がその他の品をもっと良く見ようと近寄ってきました。

少年達も出来るだけ近づこうと体を割り込ませました。

 

そこには金の首飾り、松明の熱い燃えさしのように赤く輝くエナメルのブローチ、金メッキが施された立派な青銅製の腕輪、頭上で腕を交叉させた人の姿のような形状の柄(つか)がついた短剣が並べられていました。

しかし、金やエナメルやイッカクの牙のきらめきを、まるで女性のような手付きで優しく扱う行商人自身は、黒く縮れた毛深い腕と、暗い肌色のずんぐりした体つきをしていて、どちらかといえば積まれた毛皮に似ておりました。

(4)

 

行商人は、深紅の布の上に小さな金色の玉飾りをポンとほおり投げました。

そして、玉についている短い輪っかをつまみ上げると、両の手の間で投げ交わしました。

 

「それは何かね?」

 

族長は尋ねました。

 

「初めて見るようだが。」

 

「御夫人方の髪を飾るリンゴでございます。エリウの上品な御夫人方の間で、今流行っているものです。髪をいくつもの小さなお下げに編んで・・・そうですね、両手の指の数よりも多くですか・・・そしてお下げの先にこのリンゴを付けるのです。とてもかわいらしいですよ。」

 

「ほぅ、エリウの流行(はやり)か。 おまえは今度(こたび)はエリウの方から来たのか?」

 

「私はこの夏の始め、エリウにおりましたが、なにか?」

 

族長はとるに足りないことだというように、肩をすくめてみせました。

 

「エリウからやってくる商人達は、いつも大抵は西からの道を通ってくるからな。」

 

「私はエリウから北上して、島の方へと横切り、アルブへと出ました。それは新しい道でした。誰も通ったことのない道は良い道であることが多いのですが・・・」

 

行商人は首を横に振って続けました。

 

「私はもう二度と通らないでしょう。山と海の間には、ほとんど人が住んでいないのです。大きな湖と何もない荒れ地ばかりでしたから。でもあなた方にとっては、また違った手ごたえを感じられることでしょう! からっぽの土地、馬の群れを放すのにうってつけの広い牧草地、ヘーゼルの森からヒースの平原にかけてのそこここに生えている良質の牧草・・・。」

 

松明の明りの中、互いに顔を見合わせた若者たちの頭には、シノックの『西への馬追い唄』の情景が沸き上がってきました。

ルブリンにはその躍動がまざまざと感じられ、気が遠くなるほどに高まる鼓動は他の者に伝わるほどでした。

彼の瞳が輝くダラの眼差しと重なった時、自分の中にあるのと同じものを感じました。

そして、行商人の語るとりどりの言葉といにしえの唄の記憶のなかから、二人の間にひとつの夢が生まれたのでした。

 

さて、ティガナンは妻の方を振り向きました。

ルブリンの母でもある彼女は、玉座の横に積まれた鹿皮のクッションの上に座っていました。

 

「サバ、そなたも髪をそのように束ねたいかね?」

 

サバは首を横に振りました。

イケーニの女達がよくしているように、彼女の髪も刺繍があしらわれた網(ネット)の中におさめられていました。

 

「私はエリウの女たちの間で流行っているからといって、私のやり方を変えたいとは思いません。何か贈り物をくださるのでしたら、こちらにしていただけませんか。」

 

そう言うと彼女は、磨かれた青銅製の鏡を手にとりました。

その背面には青と緑のエナメルで彩られた丁寧な仕上げの彫刻が施され、編み込まれた銀の柄がついていました。

 

「そなたへの贈り物なのだから、そなたが選べば良い。」

 

ティガナンはそう言うと、行商人に向かって

 

「鏡と引き換えに何を持って行くかね?」

 

と聞きました。

取り引きが続けられている間、青銅細工師のゴールトは前かがみになり手を差し出しました。

 

「奥様、見せていただいてもよろしいでしょうか?」

(5)

 

サバが手渡すと、彼は明かりの方へ向き直り、指先でその流れるような線をなぞりました。

三重、四重の波模様の一つ一つが渦となり、やがてまた波へと戻っていきます。

取り引きがまとまった頃合に、ゴールトは行商人に向かって言いました。

 

「よい文様だな。盾の浮き飾りにぴったりだ。」

 

そして、サバにその鏡を返しました。

行商人は微笑みました。

ゴールトとはすでに旧知の仲の彼は、前にも同じような表情を返したことがあります。

 

「盾の浮き飾りに合うかどうか、君が気にせず手にとるものがこの世の中にあるのかね? ところで、ついでと言ってはなんだが、明日の朝ここを立つ前に、君の工房で何か拝見していきたいんだが。」

 

「君に見せるもの? あるさ。」

 

ゴールトは言いました。

 

「君が買いたいと思うかどうかは別問題だがね。君が売りさばく相手次第ってことだ。私の仕事は相手を選ぶのさ。たとえ欲しがる者があっても、安いものではないしね。」

 

「相変わらずだな。」

 

ゴールトは笑って、両手を広げてみせました。

 

「安く売る必要もない。」

 

「良い値をつけるよ。」行商人は言いました。

 

「良い商いができそうだからね。なにしろアトリベイツの奴らは金持ちだから。」

 

「アトリベイツ? 聞いたことがあるな。ガリアから運んだ真新しい金貨でいっぱいな奴らだろう。おおかた、青銅細工師や盾職人たちを抱えているんじゃないのか?」

 

「立派な部族さ。戦車を操り、彼等にふさわしい立派な青銅細工師や盾職人たちがいる。でも裕福な連中、特にカネをたくさん持っている相手は商売がしやすいんだよ。なにしろ自分達の工房で作られるのとは違う、彼等にとって珍しいものを手に入れることを好むからね。だからきっとカネを出すさ。」

 

しばらくの沈黙の後で、二人は互いを見やりました。

すると族長が言いました。

 

「私も聞いたことがある。『狭き海』を越えてきた部族であろう。あそこに住み着くために。」

 

彼は南に広がる低地の森の方角を親指で指し示しました。

 

「彼等は北へ向かって来るらしい。進軍してくる『赤いたてがみ』の奴らに踏みつぶされるくらいなら、誰でもそうするだろうがな。」

 

やがて彼等は白亜の丘と森の向こう、『大海』へと続く南側の世界について話し始めました。

自らの部隊を『軍団』と呼ぶ強権的な部族がいて、金銀で作られた軍神の鷲の旗印の後を列をなして行進し、その兜には馬の赤いたてがみがついているのです。

行商人は一度ならず彼等と過ごしたことがありましたので、いろいろと面白い話をしてくれました。

皆は周りに座って聞き入っていました。

こういった旅の話こそ、彼等の目当てだったのです。

 

しかし、ルブリンはまるで聞いておりませんでした。

相変わらず、北に広がる土地に思いをはせていました。

山々と海にはさまれ、まだ手つかずの草原が待っている。

そこを探すため、いつの日かダラとともに若者の新たな一団を引き連れて北へ向かう、そんな馬鹿げた夢を見ていたのでした。

見たこともない程高くそびえる山々の麓(ふもと)には、牝馬たちが草をはんでいます。

そして、新しい炉辺で竪琴弾きが新しい馬追い唄を紡いでいます・・・。

 

ダラに肩を揺さぶられ、ルブリンは男子の館へ戻る時間になったことに気がつきました。

 

その夜、ルブリンは5才の時から何度となく繰り返し見ている、あの白い牝馬の夢を見ました。

丘陵の尾根をゆっくりと走る、草原の下に隠れた白亜の大地よりも白く、さんざしの花よりも白い牝馬の後ろには、影のような馬の群れが従っていくのでした。


第4章 新族長の選ばれる宴

(1)

 

男子の館での7年間が過ぎ、ルブリンとダラは共に『隠密の日』の秘儀にのぞみました。

一族の女たちは彼等を死んだものとして嘆き悲しみ、3日の後に槍(やり)の戦士の間から現れた彼等は、誇りに満ちた様子で一人前の大人の配置につきました。

その胸や腕には、まだ赤く痛々しい男文様の入れ墨がありました。

 

今やルブリンの首には、ブラッチとコーフィルと同じ族長の息子を表す青銅の首飾りがかけられています。

しかし、ルブリンとダラの仲は、かつてシノック爺が例えた「ヘーゼルナッツの片割れ同士」であることに変わりありませんでした。

話にこそ出ないものの、北の牧へと旅立つ夢をいまだ分かち合っていたのです。

 

年に2回、春の炎のベルタン祭と、馬に焼き印を押し牛の屠殺を行う秋のサムハイン祭の頃になると、馬たちは丸まると肥え、ティガナンの堅固な丘砦を囲む斜面では行商人たちが大勢あつまる馬市が催されました。

どちらの駆り集めの時期にも一日の仕事の後で宴が張られ、大切な儀式が執り行われます。

そのたびに季節は巡り、小麦は熟し、牝馬はたくさんの子馬を生み、女たちは男の子に恵まれるのでした。

ところが、ルブリンが成人として初めて臨むサムハインの集いは、暗い影におおわれていました。

広間の裏手にある女の館では、母であり一族の女であるサバが病に痩せ衰えて、今や祭司の施すあらゆる癒しの術も及ばぬ死の床にあったのです。

 

影は、ルブリンと青空の間に冷たく広がっていました。

しかし、馬を肥やし焼き印を押す仕事は進めねばなりません。

ましてルブリンには族長の息子としての役目がありました。

牛の扱いは、羊や小麦と同じように古き人々の仕事でしたが、馬の扱いは一族の男たちの役目でした。

そしてサムハインとベルタンの祭りの時期には、槍しか持たない下級の戦士から族長に至るまで、皆それぞれやらねばならない仕事がありました。

ルブリンは2歳馬の一群を柵に追い込み、入り口の木戸を元のように降ろして戻ってくる途中で、馬市に来ている見知らぬ男が古い芝土の壁にもたれているのに気がつきました。

まだ年若い男は背が低くがっしりした体格で、頭には金髪がふさふさと波打ち、子馬を選ぶ目は、風焼けした顔の青い裂け目のように見えます。

 

「いい馬ばかりだな」

 

彼はルブリンの視線に気づいた様子で、こちらを振り向きざまに言いました。

ルブリンは男の物腰が放つ雰囲気を感じ取りました。

 

「戦車を引く馬が見たいのではないか?」

 

見知らぬ男が笑うと不揃いの歯が見えました。

 

「この秋の2歳馬を2年かけて戦車引きの組みに育てるのだろう? そいつを見てみたいね。」

 

「やっぱりあなたは戦車乗りだね。」

 

ルブリンは言いました。

 

「それなら、西の牧に行けばそういうのがもっといるよ。」

 

そして、口ごもりながら続けました。

 

「今からそこへ行って、もう一群を連れてこなくちゃならないんだけど、僕と一緒に行くかい?」

 

「そいつは助かる。」

 

男はそう言うと

 

「馬を用意できないかね。俺のは市のキャンプに置いてきているんだ。」

 

小さな黒毛馬の手綱を握ったまま、ルブリンはそばを通りかかった男を呼び止めると、縦じまの乗馬布が掛けられた栗毛の馬を連れてこさせました。

ほどなく2人は丘陵の南西へと馬を駆っていきました。

左へと流れゆく見なれた景色は、川辺のうっそうとした森の中へと消えていきます。

天気がよければ、アトリベイツ族の領地の丘がずっと向こうに見渡せたことでしょう。

しかし今日は、秋のくすんだもやがまるで青くいぶす煙りのように低地を覆い、南の土地は夢の中の風景のように見えました。

黄土色に広がる芝地のその彼方から、雲の影が立ちのぼっています。

まるで軍勢のようだ、ルブリンはふとそう思いました。

ゆっくりと襲いくる大きな影の戦車軍団のようだと。

 

「アトリベイツのところには行くのかい?」

 

ルブリンはなぜかそう聞いていました。

 

「ああ、その前にガリアにもな。馬が売り買いされてるところならどこでもさ。」

 

「いつか戦いになるらしい。」

 

「戦い?」

 

男はルブリンを見やりました。

 

「アトリベイツは再び猟地を広げるために前進してくるって。」

 

そう言いながらルブリンは、自分自身の言葉に震えを感じている自分が恥ずかしくなりました。

戦士であるのに。

槍を血で染めることは何でもないことのはずなのに。

 

「そう言ってる。」

 

ぽつりとそう付け加えました。

 

「誰が?」

 

「年寄りたちがさ。確かそう言っていた。」

(2)

 

「年寄りはいつもそう言うのさ。いつでも、どこの部族でも。ずっと言っていれば、いつかそうなるんだろう、終いには。」

 

「そうだね。」

 

乗っていた牝馬にかかとでギャロップの合図を送り、ルブリンが振り子が振れるようにフワリと駈け降りた先は、馬追いたちが仕事に精を出す長い谷間(たにあい)で、南からの視界も流れくる雲の影も、さんざしがまだらに茂る丘の背に遮(さえぎ)られた場所でした。

 

その晩ルブリンが丘砦の門に帰り着いたとき、女たちが泣き叫ぶ声に母が亡くなったことを知らされました。

そして彼のあたまの中からは、その日行動を共にしていた見知らぬ男のことなどすっかり消えてしまいました。

 

ルブリンの母は寝台に横たわっていました。

首には硝子(ガラス)製の青い首飾りがかけられ、銀の柄の付いた青銅の鏡が脇に置かれています。

ルブリンは母が逝ってしまったことを嘆き悲しみ、雨の降り続く長い秋の夜を一晩中泣き続けました。

ちょうど17年前、ルブリンのために母がそうしたように。

 

いつの世もそうして命は引き継がれてゆくのでした。

 

今や、新族長を選ぶ宴の開かれる時が来ました。

しかしながら、テレリはまだ12歳です。

本来ならば14歳になった時に、新族長の選出される宴がもたれ、それと間をおかずに結婚の儀が執り行われることになっていましたが、一族の女である母親サバが亡くなった今、ティガナンの後を継いで一族を導いていく者を若い戦士達の中から探すことに、もはや一刻の猶予もありませんでした。

 

祭礼が催され、祭司である樫の木のイシュトレスは、魂の瞳が開かれるというハーブの浸された蜂酒『覚醒の盃』を飲み干すと、白亜の丘に隠されたくぼ地へと降りて行きました。

そこには低い芝土の囲いの中に9本の聖なる林檎の木が立っていましたが、最も樹齢を重ねた林檎の木の下に横になると、彼は眠りにつきました。

子馬の女神エポナ、大いなる母によって選ばれし戦士の名が、夢で告げられるのです。

 

その夜、イシュトレスが聖なる場所で馬革の衣にくるまれ降りしきる雨の中眠っている間、族長の広間と前庭では宴が続けられました。

しかし夜明けの最初の灰色の光が射し込むと、いつしか宴は終わりを告げ、男たちは一晩中開けたままにされていた西門の方を見つめ始めました。

そして何かを待つ大いなる静寂が、丘砦一体に広がっていったのです。

 

ついに、ゆっくりとこちらへ向かう足取りとその足が踏みならす小石の音が、静けさに包まれた朝の隅々(すみずみ)にまで響き渡りました。

やがて現れたイシュトレスは、入り口にある幅広い敷石の上に立ちましたが、皮膚に描かれた儀式文様は雨でぼやけてしまい、目の周りの黒いくまは一晩中一睡もせずに今やっと長い長い旅から戻ってきた者の顔でした。

 

押しつぶされそうな静寂が、まだ丘砦を包んでいます。

若い戦士達の間でダラの隣に立っていたルブリンは、秋の雨のささやきや、丘の上を吹きすさぶ風のざわめきや、馬屋の中庭で馬が脚を踏みならしているのを聞いていました。

 

イシュトレスは前庭を、人々が後ずさりしてできた道を通り、武器を研ぐ黒い背高石の脇を抜けて、ゆっくりとティガナンの待つ広間の入り口へと進んできました。

 

ティガナンは儀式にのっとった言葉をかけました。

 

「行ってきたか? 見えたのか? 問いかけたか? 答えはその手にあるのか?」

 

イシュトレスは、わずかに湿った風のざわめく音にまぎれる程の声で応えました。

 

「行ってまいりました。見ました。問いかけ、そして答えを持ち帰りました。」

 

「長きにわたり待ち望んだその答えを、我らに告げよ。」

 

イシュトレスは族長の隣まで辿り着くと向きを変え、前庭に集まった人々に顔を向けました。

突然彼は腕を高く掲げて、今度はトランペットの響きのような凛とした声をあげました。

 

「聞け、聞くがよい、我らが馬の民よ。我、イシュトレスは『選びの眠り』につき、子馬の女神、すべての源であるエポナと話した。一族の女の主となり、ティガナンの槍を持つ手から力が失われし時にお前たちすべての槍の主となるべき戦士の名を、我ここに持ち帰るなり!」

 

そして再び沈黙が訪れました。

風が通り過ぎ、馬屋の中庭では馬が脚を踏みならしています。

 

やがて人々は口々に叫びました。

 

「名を伝えよ、樫の木の祭司、イシュトレス!」

(3)

 

そして再びの沈黙の後で、イシュトレスの声が響き渡りました。

 

「この名は、林檎の木の下に腰をおろし、そのかたわらでは牝馬が草をはみ、おひざの林檎に子馬が鼻を押し付けていた、我らが母なるお方が告げし名である。それはダラ、ドォロクメイルの息子! 彼こそ一族の女の主となり、時が来て一族の主になるものなり。」

 

男たちは一斉に叫び声を挙げました。

 

「ダラ、ドォロクメイルの息子! ダラ、ドォロクメイルの息子!」

 

ティガナンは前に進み出ました。

にわかに信じきれないショックから小さな冷たい感覚をお腹の辺りに覚えたルブリンは、隣のダラがまるで驚いた動物のように一瞬身を強ばらせた気配を感じました。

しかし、兄弟よりも深い絆で結ばれた友は族長の待つ広場の中央へと歩み出し、彼の隣にはもう誰もいないのでした。

 

ダラは族長の両手を自らの手で包み込むと、額の上にかざしました。

その間、男たちは雄叫びを挙げながら槍の石づきを地面に打ち付けましたが、それはまるで白亜の大地が足下で息を吹き返すまで続けられるかのようでした。

それは地の底深く眠れる大いなる魂の鼓動のようでした。

 

その時ルブリンは、そっとその場から離れると丘砦の外に出て、低地の牧の間に伸びている馬追い用の土手道を、谷間の森へと下ってゆきました。

足はひとりでに、大きな魔女楡の木のある開墾地の外れへと向かっています。

男子の館での生活が息苦しくなった時にたびたび隠れ家にしていたその木に、うわの空で登っていく様は、ちょうど自分の家への帰り道を知っている人のようでした。

じきにお気に入りの枝に辿り着くと、そこに寝そべりました。

葉はすでに散っていましたが、木の下ではまだ樺(かば)やヘーゼルや樫の朽葉色や金色の茂みが、秋の侘びしいきらめきを放っています。

深い裂け目の入った灰色の樹皮は、雨に打たれてほとんど真っ黒な色をしています。

それでも彼の隠れ家は、これまでと変わることなく今もそこにありました。

ルブリンは丘陵の高みにうずくまっている丘砦を、楡の葉一枚で隠してしまうことのできた父の丘砦を、今日は見ようとはしませんでした。

ただ、枝に横たわりながら両の腕に顔を埋めて、自分の中にある暗闇を見つめていました。 

ただ呆然と。

 

不思議なことに、ルブリンは不意にテレリのことが気になりました。

女の館にお告げが伝えられた時、彼女はどう思っただろう。

ルブリンは妹のことをあまり知りませんでした。

男子の館に移った時にはまだ4歳だった妹。

ぽちゃぽちゃした女の子だった彼女は、欲しいものが手に入らないと言ってはいつも泣いていたっけ。

今も泣いているのだろうか。

いや、よろこんでいるのかもしれない・・・。

ルブリンは考えを巡らすのを止め、そこに長いこと寝そべっていました。

馴染んだ木の枝の生命力を身体の下に感じながら、じっと暗闇を見つめていたのでした。

 

ずいぶん時が過ぎ、開墾地のはずれから何かが、いや何者かが下草をかき分けてこちらにやって来る微かな音が聴こえてきました。

瞳を開いたルブリンが、からまり合った赤茶色の小枝の向こうを見やると、そこにはダラの姿がありました。

 

ルブリンはいままで寝そべっていた枝にするりとぶら下がり、つま先に次の枝を確かめながら、揺れるように枝から枝へと降りていきました。

ちょうど地面に降り立った時、ダラも木の下に着きました。

隠れ家の外で迎える方が、入って来られるのをただ待つよりずっとましに思えたのです。

 

二人は互いを見やって立っていました。

情熱を秘めた青い瞳と、冷静な黒い瞳。

二人が見つめ合っているその間、冬のはしりの冷たい風がひと吹き森の際から吹き込んだかと思うと、過ぎ去った夏の名残りを吹き払うように灰色のあざみや枯れたジギタリスの上をからからと通り過ぎて消えていきました

 

「探しにきたんだ。」

 

ついにダラが口を開きました。

 

「宴はこれからだよ。」

 

ルブリンは、辺りがほの暗くなってきたことに気づきました。

 

「どうしてここだとわかった?」

 

ルブリンは尋ねました。

 

「男子の館で過ごした頃から、そう経ってないからね。」

 

しかしルブリンは、その木のことをダラにも話したことはなかったのです。

 

ダラはルブリンの表情を見て取ると、問われたかのように応えました。

 

「おろしたてのサフラン染めのキルトを、この木の枝に引っ掛けて破ってしまったことがあったろう。低い枝にぶら下がってる切れ端を見つけたのが、他の誰かじゃなくてよかった。」

 

「いや、別に誰に見つかってもかまやしないさ。誰も届かないところまで登れるから。」

 

「まるでリスのように小さいからな。」

 

笑ってからかい合えば気楽な兄弟同士に戻れる、そう思いたかった二人ですが、やがて笑い声は乾いたのどの奥に消えました。

もうあの頃と同じにはなれない。

無言のまま見つめあう二人の間で、あの夢は潰(つい)えてしまったのです。

馬を連れて、共に北へと旅立つあの夢。

これからたとえ新たな牧へと若者たちを導くことがあるとしても、それはルブリン一人でやらねばなりません。

今やダラは、白亜の丘陵にある丘砦を離れることがかなわなくなったのです。

 

別れの挨拶を交わすかのように、二人はしばし互いの肩を抱き合いました。

やがてルブリンは言いました。

 

「行こう。宴に戻らなくては。」


第5章 南から押し寄せるもの

(1)

 

 

実際にダラとテレリが結婚するまで、2年の時を待たねばなりませんでした。

一族の女は誰でも、14歳になるまで夫の家へ行くことは許されなかったのです。

そのため、テレリは2年の間は今まで通り女の館で娘として過ごし、ダラもまた相変わらず広間で他の若い戦士たちと共に寝起きしていました。

聖なる林檎の木の間で、イシュトレスが選択の眠りに就いた以前と、表面的にはなんら変わりない生活が続いていました。

 

丘陵は雪の季節を二度過ごし、その度に男達は先住の民と共に夜毎(よごと)狼の見張り番へとかり出されました。

二度迎えた夏には、陽射しに芝は乾いてすべりやすくなり、南風がタイムやクローバー、青く揺れているまつむし草の花の香りを運んできました。

羊達は仔羊を、牝馬は仔馬を産んで、やがてルブリンの魔女楡の木が小花のつぼみで紫色に煙る早春を迎えました。

 

この頃になると、アトリベイツとの戦争を口にするのは、年寄りたちだけではなくなっていました。

南からやって来る商人達は口々に、武器を研ぐ男達の様子や、新しい戦車が造られ若馬が調教されていることを話して聞かせました。

そこでティガナンは、イケーニの南側の牧に沿って監視を続けるよう指示を出しました。

それから丘砦の東門をふさぎ、そこから伸びている土手道を崩して、万が一襲撃があったとしても、いいえ、襲撃された時に守るべき出入り口がひとつになるように備えました。

 

しかし、季節は何ごともなく収穫の時期を迎え、刈り取られるのを待つばかりの大麦が丘陵の斜面を白くしました。

収穫後の最初の新月の晩に、女達は白亜層の脱穀場でさっそく仕事に取りかかりました。

ダラとテレリの婚姻の宴を開く時が来たのです。

 

新月の後の最初の日の光が射し込むのに合わせて一族は集い始め、白亜の丘陵の向こうや低地の森にある開拓地、仮の居住地から大挙してやってくるイケーニの民は、その日のうちに群集ヘとふくらんでいきました。

威勢のいい馬にまたがった戦士達は立派なマントに身を包み、女達は髪に聖なるバーベナの花を編み込んでいます。

じきに丘砦はベルタンの馬市の時のように人でいっぱいになり、話し声や笑い声、琴の音、馬たちが足を踏みならしながらうれしげにいななく声、サフランや青、紅色の上等な布地、青銅でできたブローチや短剣のきらめき、そして調理場から漂う鹿や牛や羊の丸焼きのいい匂いで満ちあふれました。

 

やがて黄昏のなか影が伸び、空がしおれた糸沙参(いとしゃじん)の花の色に変わると、武器研ぎ石と広間の入り口の間では7種類の木に火がつけられ、いつしか静寂に包まれた人々は男も女も西の方角を向き、夕陽のなごりのなかに青白い羽のように光る新月を探しました。

 

ルブリンも皆と同じように空を探していましたが、羽になりかけの白い幻影を見つけた時、いよいよその時が来たと思いました。

ルブリンの周りにかすかな囁き声が広がっていきました。

その時です。

広間の裏手の女の館から、かん高い葦(あし)笛の白い音色と女達が静かなくぐもり声で謡う婚礼の唄が聴こえてきました。

そして、聖なる角笛が朗々と響かせる神の声が、すべての音を飲み込んでいきました。

(2)

 

やがてこだまが静まると、広間の入り口には祭司たちに囲まれて立つ族長ティガナンの姿がありました。

人ではなく神としてあるティガナンは、たてがみ逆立つ神の仮面をつけ、その手首には人間には身につけることの許されない聖なる腕輪をしています。

荘厳な儀式においては常にそうであるように、族長はもはや人を超えた存在として、祭司の長、神なる祭司、神なる族長として、彼の民と生死を司る主との間に立っているのでした。

そして、そのような時の常として、世界は何ものかに覆い尽くされ、人々の心は畏怖の念に溢れました。

 

再び角笛の音が鳴り響くと、丘砦の女達すべてを従えて、テレリが女の館から静かに歩み出てきました。

まっすぐに近づいて来る姿を目にしたルブリンには、テレリがやけに背が高くなったように感じられます。

それはきっと、その細い首の上に大きくて重い、銀の板飾りが揺れる月の冠を戴いているせいでしょう。

彼女が見知らぬ者に見えるのも、額(ひたい)に白く描かれた月の印のせいでしょう・・・。

 

今度はダラが男達の側から進み出て、二人は揃って広間の入り口に立つ仮面をかぶった者の前に立ちました。

 

族長は神の仮面の後ろから、うつろに響く問いをしきたりどおり投げかけました。

 

「なんじが乙女のために用意したものは何か? なんじのために乙女が失うものの代わりとして相応しきものを?」

 

そしてダラは遠い昔、部族がまだ狩りをしていた時分から伝えられる言葉で応えました。

 

「我が炉辺で温め、我が獲物を差し出し、我が盾でかくまい、そして我が槍で敵から守らん。我、これらを乙女に捧げるものなり。」

 

「よかろう」仮面の後ろのうつろな声が言いました。

 

前に進み出た樫の木のイシュトレスの手には、短剣の乗った青銅の立派なワイン杯が捧げられていました。

ティガナンは短剣を手にとり、まずはダラの手首、次にテレリの手首にと、順に小さな切り口をサッと入れたかと思うと、ワインの中に二人の血の雫を数滴落としました。

それは、丘砦の下手に半ば野生化した9本の林檎の木に生(な)った実から作られたワインでした。

男女が結ばれる場面では、いつも林檎酒が供されるのです。

 

ダラとテレリは杯の湾曲した側面に共に手を添えると、慣習どおりに口をつけ、そして儀式は終了しました。

 

ルブリンは、杯を手にして立っている二人の様子を眺めながら、互いを選んだわけではない二人だけれど、これから二人の間で起こることは直にすべてうまくいくようになるだろう、そう素直に喜ぶべきなんだと思いました。

(3)

 

やがて、掘りかまどが開けられ、7つの種類の木を燃やした焚き火を囲んで宴が始まりました。

女達は晩夏の黄昏の中、火明かりを頼りに大壷に満たされたワインや大麦ビールを注いで回ります。

そして、辺りがとっぷりと暮れた後も、男も女も踊りに興じました。

向かい合って列をつくり、前に出たり後ろに下がったりしながら、高く澄んだ笛の音(ね)や手のひらや指、拳が打つ狼皮の太鼓の鼓動に合わせて、始めはゆっくり、そして次第にテンポを早めながら踊るのです。

そのうち先頭のダラとテレリを皮切りに、戦士たちが隣の女たちの手をとり、まるで蛇が脱皮をするように列を離れていき、今度は焚き火の周りを太陽回りに勢いを増しながら回り始めました。

その影は、まるで炉火の中でぐるぐると円を描いて飛ぶ大きな黒い蛾のようでした。

ルブリンは、丘陵の外の開拓地から来ていた赤毛の笑っている女の子と踊っていましたが、ふいに太鼓のリズムの向こうに、何か別の鼓動が聞こえるような気がしました。

とてもさし迫った何か、絶望的なまでにさし迫った何かがもうそこまで来ている・・・それはもはや感じではなく、はっきりとした音となって聞こえています。

他のものたちもほぼ同時に気づき始め、太鼓の音がひとつふたつと鳴り止んでいきました。

踊り手も身体を揺すったり足を踏みならすのを止めて、まるで根が生えたようにその場に立ち尽くしています。

皆は、ただひとつ残された門の方に顔を向けました。

夏の日射しに固まった小道を蹴る乱れたリズムは、馬がよろめき倒れる寸前であることを物語っていましたが、猛烈なそのスピードは緩まることなく近づいて来ます。

土手道にまで達したその音は門から突入してきたと思うと、暗闇から焚き火と篝火(トーチ)の揺らめきの中へと一気に躍り出ました。

 

「アトリベイツだ! アトリベイツが進軍してきた! 北へと向かって来ている!」

 

走り疲れた馬の上で、乗り手は急の知らせを叫んだかと思うと、よろめきながらも手綱をさばいて馬を止め、その背から転がり落ちました。

(4)

 

老人たちの話がとうとう現実のものとなったのです。

婚礼の宴で始まった宵は、戦(いくさ)支度の夜へと変わりました。

馬が駆り集められ、丘陵や森の秘密の場所へと追い立てられます。

敵の急襲が嵐のように過ぎ去るのであれば、群れは丘砦の中へ避難させればよいのですが、襲撃が長引く場合には、貯水穴の雨水は人々と戦闘用のポニー、そして食料用の数頭の牛のためのものとなるので、群れの残りは森の陣地で自ら水や草を見つけて生き延びねばなりません。

戦車の準備が整えられ、兵糧のパンが大急ぎで焼かれ、戦士たちは黒い背高石で剣や槍の刃を研ぐのでした。

 

夜明け前に何度も南の牧からの斥候がもどり、敵の軍勢についての報告をしました。

軍勢と言うからには、ただの急襲の一団とは違います。

300以上もの戦車が、丘陵の西方に延びる大峠を目指して進軍しているというのです。

もはや北の牧はアトリベイツに明け渡されたも同然であり、ここ白亜の丘陵に築かれたイケーニの古き丘砦は、追い詰められた熊のように周りを取り囲まれていました。

 

夜が明けました。

牝馬の尾っぽを揺らして吹くそよ風に流れる雲が、ヒバリの歌声と共に煌めき始めたその一方で、芝の斜面やくぼ地にはどこも長い影が横たわったままでした。

戦車用の馬たちはくびきにつながれ、戦士たちもいつでも出陣できる態勢が整いました。

その頃馬小屋では、一晩中馬の群れを駆り集めていたルブリン・デュが、父親に噛みついていました。

 

「なぜですか?」彼は迫りました。

「なぜ? なぜです? なぜなんですかっ!」

 

「私からの命令である。それだけで充分ではないのかね?」

 

「ブラッチやコーフィルにも、同じ命令なんですかっ?」

 

族長はしばし無言で、その肩に狼皮の立派なマントを羽織った後で

 

「そうはならないだろう。」と答えました。

 

「それなのに、僕にはそうなのですか? 僕が戦車隊と一緒に行けないとおっしゃるなら、その理由を聞かせて下さい!」

 

裏手から、ティガナンの戦車を引く二頭の赤毛の一頭が首を振り上げて対(つい)のポニーにぶつかるのを、穏やかにののしる戦車使いの声が聞こえてきました。

 

「歯向かうでない、黒い仔犬よ。」

 

族長はルブリンの肩を素早く掴むと言いました。

しかしその声は、掴んでいる指ほどに荒々しくはありませんでした。

 

「よく聴き、そして弁えるのだ。ダラは私の後を継ぐ者であるから、戦車隊では私の隣にいなければならない。私の息子たちもそうだ。しかし1人は指揮官であるドゥロクメイルと共にここに残り、万が一我らが敗れた時にも、南から来たものたちから丘砦を守らなければならない。それに我らが走り去った後で、残された者たちが見捨てられたと勘違いしないためにもな。わからぬか? 族長の息子のうち1人は、共にいてやらねばならぬのだ。」

 

「女たちと子供達と年寄りたちと共にですね。」ルブリンは腹立たしそうに言いました。

 

「女たちと子供達と年寄りたちと、そしてドゥロクメイルと共にだ。あやつもお前に負けず劣らず嬉しくない様子だったが、お前より歳を経た分賢い猟犬になっているから、少し吼えただけだったがね。」

 

ルブリンにはしかし、父親の言葉の最後の方は耳に入りませんでした。

 

「それで僕が残らなきゃならないってことですか? 僕が兄さんたちと違ってチビで変わっているから?僕が黒い仔犬だから?」

 

「お前が黒い仔犬だからではない。もっとましな理由からだ。」

 

「僕は乗れる、戦車を操れます。ブラッチとコーフィルのように!」

 

「私は聴けといったはずだ!」

 

それは突然の大声でした。

肩を掴んでいる指は骨に食い込みそうな程、力が入っていました。

それから族長の声はもとのように静かになり、一段と穏やかになったかと思うと、ルブリンにだけ聞こえるような声で言いました。

 

「私は辛抱強く話したはずだ。しかしもうそうしている時間がない。敵陣に戦車で突撃することについては、私はブラッチやコーフィルやダラを信頼できるのだ。しかし、それ以上に難しくなるであろうこのことが、彼らに勤まるかどうか定かではない。だがお前になら託せるのだ。」

 

じっと見つめる父の眼差しに、ルブリン・デュの怒りは力尽きました。

そう、ダラとともに戦車で華々しく突撃していく栄誉は、彼には与えられてはいないのです。

彼に許されているのは、ただじっと塁壁の後ろで待つことであり、一族の勝利の暁にも戦士たちの誉れの席に彼の場所はなく、敗北においては誰の記憶にも残ることなく、ただ最後に血を流すことだったのです。

そうしなければならないことを、ルブリンは受け入れました。

 

「わかりました、お父さん。」 そう答えました。

(5)

 

両脇を騎馬隊に固められて、戦車隊が大手門を走り抜けていきました。

昇ったばかりの朝の陽の光が、鉄の刃や青銅の馬飾り、シノックの竪琴の弦、樫の木のイシュトレスの頭を飾る大きな三日月の上で煌めきました。

いつの時代も、祭司は神の加護を得るため軍勢と共にいて、竪琴弾きは勝利の唄を奏で続けるのです。

遠ざかる蹄と車輪のとどろきを覆い隠すように、舞い上がる晩夏の白い砂煙りが丘陵を包み込んでいきました。

 

大手門へと通じる道の脇を固める塁壁の上に立ったルブリンは、丘陵に隣り合う低地の開拓地や仮の居住地から、馬追い道を通って戦車や騎馬隊の小さな固まりが集い来て、本隊に合流する様を思い浮かべました。

そして、やがて南の軍勢が越えて来るであろう大峠を、味方の隊列が越えていく様を。

今晩にはここでも戦いになるだろうか?

ルブリンは戦車隊の影が列をなして丘をこちらへ向かってくる様を想像しました。

それとも、今日の晩はまだ峠中の見張りのたいまつが灯ったままで、戦いは明日になるのだろうか?

 

どのくらい待たねばならないのだろう? 

待った後にはどうなるのだろうか?

我が民は小さく、アトリベイツは大部族だ。

今はそのほんの一部が襲ってきているのだとしても、必要となれば次から次へと部隊を送ってくるだろう。

ちょうど南からの風に乗って漂いくる雲の影が途切れる前に、また別の影が蒼く霞む彼方から絶えまなく流れくるように・・・。

 

そんなルブリンの傍らから、古傷跡も鮮やかなドゥロクメイルが荒々しい口調でこう告げました。

 

「さあ、来い。こんなところに二人して突っ立って、恋する小娘みたいに軍勢をぼんやり見送っていてもしょうがないだろう。ただ待っているだけじゃなく、やらねばならんことは山とあるんだぞ。」


第6章 勝者と敗者

(1)

 

やるべき仕事も、待つ時も、余りあるほどの長い一日でした。

朝のうちには、東の牧からの数隊が立寄り、塁壁の上の男たちに向かって何か変わったことはないかと大声でたずねましたが、何もないと告げると夏の白い砂煙の中を西へと姿を消して行き、その後はもう何も通りませんでした。

一族の戦士たちは皆、隘路(あいろ)に備える軍勢に加わるため出陣し終えたのです。

その背後を守る丘砦では、子供と年寄り、そして不安気な目をした女たちが、ドゥロクメイルの指揮の下にそれぞれの仕事を黙々とこなしていました。

 

いずれ料理をする暇など無くなってしまうその時に備えて、食べ物の用意はすでに整えられ、予備の牛や数頭の交替用の馬が、最後の水飲みのために南の斜面のふもとにある泉へと連れていかれました。

この後は、牛たちだけでなく丘砦を守る人間にとっても、雨水を貯えている窪みの水だけが頼りとなるのです。

暗き肌の民は、昔からそうしてきたように丘陵の景色の中へ姿を消してしまったため、ルブリンと七歳組の男子たちが牛たちを水飲みに連れていきました。

暗き肌の民にとって、重荷になるばかりの戦(いくさ)は他人事なのです。

ドゥロクメイルは、気持ちを押し殺した表情で、恐いほど物静かに武器を検分して回りました。

他の部族の女たちのように、軍勢を追っていった者こそいないとはいえ、女たちの誰もが槍のあつかいを知っていましたし、子供たちも嬉々とした顔で自分の投げ石や投げ槍を取り集めては、族長の館の前庭にある、あの黒く背の高い武具石で研ぎ始めています。

 

南西から吹きつける風が止むことのない一日でした。

夕暮れ近くに一度だけ、遠くで軍ラッパが響く音がしたような気がしましたが、皆が仕事の手を止めて耳を澄ましてみても、もう何も聞こえては来ませんでした。

ただ、ヒューヒューと塁壁の上を吹き抜けていく風の音と、内に外に巡らされた堤の間の畝(うね)に囲われた牛が数頭鳴く声が聞こえるだけです。

ルブリンは再び、武具石で自分の剣を研ぎ始めました。

シュ、シュ、シュ。

まだ研ぎが足りない、とでもいうように。

 

背後に少女が歩み寄ってきた気配に振り向くと、そこにはテレリが立っていました。

額には、まだ月の形の白い跡が残り、銀の頭飾りこそ外されていたものの、髪は古い革ひもで後ろに結わわれ、いつもとは違った雰囲気でした。

テレリは持ってきた槍をルブリンに手渡して言いました。

 

「鋭く研いで。とても鋭くね、ルブリン兄さん。」

 

彼にとって、柔らかくてちっちゃな存在だった妹。

それが今は、若い雌ギツネのように歯を見せています。

 

「あの夕焼けを突いて血を流させるほど、鋭く研ぐさ。」そう答えたルブリンに、彼女は返しました。

 

「相手の喉を裂けさえすればいいのよ!」

 

 

夜はとてもゆっくりと過ぎゆき、やがて次の日になりました。

正午過ぎになって再び聞こえてきた馬の蹄の音は、西からのものでした。

一頭の馬が懸命に走ってきます。

丘砦の者たちは今や遅しと塁壁によじ登り、やって来たのが誰なのかを確かめようとしました。

よろけて今にも倒れてしまいそうな馬の背には、騎手の前に抱えられるように横たわった、もう一人の男の姿がありました。

人々は大手門へと群がりながらも、騎手と血だらけの荷を載せた馬が十分通れるだけの道を開けました。

馬は、誰に御されることなく立ち止まろうとしてよろめき、うなだれ、苦しそうに脇腹を膨らませています。

騎手は半ば転がり落ちるようにして、馬の背から滑り降りました。

ルブリンは、何人かと力を合わせて馬上に横たえられた男を降ろそうとしましたが、見ればそれは兄のコーフィルでした。

 

まるで薄笑いを浮かべるように、わずかに口元が開いて固まっているコーフィルの表情は、大口を開けて人を馬鹿にしていたかつての兄とは別人のようでした。

あばらの間からは、折れた投げやりの先が突き出ています。

 

コーフィルを馬の背から降ろし、地面に横たわらせると、周りの者たちは次々に問いかけました。

膝をつき、座り込んで頭をかかえる騎手の左腕には、まだ血が止まらないほどの深手を負っています。

両目は泣きはらしたように赤く、顔中が白い埃で覆われています。

 

「水を」しわがれた声が言いました。

「喉が、かわいている・・・。」

 

誰かがコップを持ってくると、口に注ぐようにして水を飲ませてやりました。

 

「奴らはこっちの四倍もいる。俺たちは全滅だ。」

 

「族長は?」

 

「死んだ。ブラッチも。我々のほとんどが。」

 

兄の頭を膝に載せていたルブリンは、「ダラは?」と問いたい気持ちを呑み込みました。

遅かれ早かれ皆死んでしまうのですから、今さらそれを聞いたところで何の意味もないことなのです。

 

「門を閉じろ。」

 

ドゥロクメイルの声が残された者たちを貫きました。

そして、騎手に向かって言いました。

 

「どのくらいまで迫って来ている?」

 

男は首を横に振って言いました。「すぐそこまでだ。」

 

その言葉が、かろうじて発せられたと思う間もなく、再び軍ラッパの響きが今度はすぐ近くから、南西の穏やかな風に乗って聞こえてきました。

(2)

 

戦(いくさ)はやってきました。

そして、谷間の空が黄昏るころ、すべては終わったのです。

広い堀や塁壁の上を、男も女も子供たちまでも、だらりと手足を伸ばした死体となって覆っていました。

ルブリンの民は生け贄の牛のように大人しくしてはいなかったので、アトリベイツとイケーニの双方が血にまみれました。

トンビや渡りカラスが低い空に円を描いて飛んでいます。

ただ一つ残った門に伸びる道に折り重なって横たわる屍は、男子の館の戦士たちの最初で最後の戦いの跡でした。

アトリベイツに奪われ火をかけられ、狂ったように燃えさかる味方の戦車隊の突撃を受けた門や守備隊の槍は、炭と燃えさしの山と化していました。

丘砦の中へと入り込んだ戦車から燃え広がる炎をくい止められるだけの水も、もはや残されてはいなかったのです。

吹き荒れる炎といななく馬、その騒乱が鎮まった後、敵の先鋒の戦車隊が屍の山を踏み分け乗り越えてガタガタと侵入してきました。

 

ルブリンは、族長の広間の前で最後の応戦をしていたことを、ぼんやりと思い出していました。

ドゥロクメイルは既に絶命しており、何かにつまづいて下を見やると、そこには二晩前に共に踊ったあの赤毛の女の子の死体がありました。

ルブリンは、アトリベイツの戦車が突入し、見るも恐ろしい、目の潰れた馬の頭がい骨の印とサフラン色のふさが流れる軍旗が彼をめがけて突進し、まるで悪夢のように頭上に翻ったことを思い出しました。

あの時、頭の右側にギザギザの閃光が走ったのです。

 

その後の記憶はとぎれていました。

暗闇というわけではなく、ただ時の断片が失われているのです。

彼の周りの世界はまだ揺らいでいましたが、やがてルブリンは自分が後ろ手にしばられて立っていることに気がつきました。

でも、どうしてここにいるのか、中途半端な記憶が頭の中を巡ります。

檻のなかの空ろな影の一人だったこと、誰かに蹴られて立ち上がり檻から引きずり出されたこと、吐いたこと。

すべてが夢であったなら・・・しかし夢ではありません。

ルブリンは、父の松明が灯されていた前庭に、後ろ手に縛られて立っていました。

目の前には男がいて、だるそうに、血まみれの戦車の片側にもたれかかっていました。

 

戦車の車輪は赤く湿り、恐ろしい形相の生首がおのれの血に染まった髪で戦車の突端に結わえ付けられています。

自分が見ているものが父であるとわかると、ルブリンは心の中で悔しさを込めて敬礼しました。

 

「やっぱりブラッチやコーフィルより上手くやることなど僕には出来ませんでした、お父さん。」

 

落ち着いているように見えるルブリンでしたが、父のことは一度見ただけで、もう見ないようにしていました。

彼は、敵の指揮官の青く細い視線から目を逸らさぬよう、しっかりと見返しました。

そして知ったのです。

その男こそ、二年前の秋に馬の駆り集めで共に駆けた男だということを。

 

「そうと知っていたら、あなたに馬など見せなかった。」

 

ルブリンはぼんやりとそう言うと、こめかみの生乾きの傷口から滴り落ちる血が目に入りそうになるのを頭を振って払いました。

 

「そうだろうとも」

 

色白の男はルブリンに歩み寄ると、その首に巻かれた細身の青銅の首飾りに触れました。

 

「お前が族長の息子か? 族長の息子を私に引き渡すよう命じたのだ、まだ生きているのであればだが。」

 

「この朝まで、三人の息子の一人だった。」ルブリンは言いました。

 

「今は?」

 

「今は、僕だけが族長の息子の生き残りだ。」

 

確かにそうでした。

よろめき倒れた馬から降ろした時、コーフィルにはまだ息がありましたが、矢じりのあぎとを引き抜いた時に、命までも引き抜かれてしまったのです。

 

「ならば」

 

と指揮官は告げました。

 

「我が手の内にあるお前の民に代わって答えよ。そして、俺がその者たちと話をする時、お前はその間に立って耳となり口となるのだ。」

 

「もしも僕が、あなたと我が民の間で耳や口になることをしなければ?」

 

「お前はそうするのさ。」指揮官の細く青い瞳が一瞬大きく開きました。

 

「なぜ僕が?」

 

「それはお前が死んだ族長の息子だからだ。一族に残された族長に最も近しい者が、常に族長にかわって民と神々の間に立つ。民とその運命、それはつまりお前たちと私だということは、お前にもわかるだろう。」

 

このときルブリンの心に、神の仮面を被り、夏の稲妻のような不思議な光を見にまとって広間の入り口に立つ父の姿が浮かび上がりました。

そうです、それは彼とこの敵の指揮官が互いに弁(わきま)えていることでした。

こうしてルブリン・デュは、族長の重責をその双肩に担うことになりました。

その任を果せる者は、彼のほかにはもう残っていないようでした。

(3)

 

手首の縄を解かれたルブリンは、もとの檻へと戻されました。

改めて見るとそこは、内と外の堤の間に設けられた馬の檻で、そこに捕虜たちは集められていました。

見張りの持つたいまつの明かりと暗闇のはざまに、陰影が深く刻まれた顔が浮かんでいます。

自分に向けられた顔の中に、見知ったものはいないかと窺うと、何人かを見つけることができました。

おそらくは、大峠の戦場から捕虜として引き連れてこられたのであろう、ほんの一握りの戦士たち。

女や、何人かの子供もいます。

そのほかには、外の開拓地からの見知らぬ者たちの顔もありましたが、しかし彼らも確かにルブリンの民の顔をしていました。

皆、敗北に色を失い、まるで石のようです。

傷付いていない者などありません。

どこからか男のうめき声が聞こえ、自分自身の血を吸いこんで泡をふいています。

またどこからか、子供の泣きわめく声と、それをなだめる女の声が聞こえます。

たいまつの明かりがとどく端には、横たわる男に覆いかぶさるようにしてひざまずく、テレリの姿がありました。

まだかすかに残る額に描かれた月の印で、それが彼女であると兄にはわかったのです。

 

ルブリンを見返す顔はどれも、もう二度と見るはずのないものを見た、とでもいう顔をしています。

その瞳と同じくらいうつろな声で、彼らは問いかけてきました。

ルブリンは、彼らの前にしっかりと立って答えました。

 

「いいや、私はまだ狼の餌なんかじゃない。我らの誰もがだ。そう思っている。さっき、奴らの族長に広間の前庭で会わされた。父の頭が、その族長の戦車のへさきに括りつけられていた。奴が言うには、奴の手の中にあるそなた達に今後話をする際には、私を通じて話すということだ。私が、奴とそなた達の間の耳となり口となる、と言われた。」

 

ルブリンには、二つの風が同時に生き残りの彼の民の間を吹き渡ったのが感じられました。

ひとつは安堵のため息。

このような戦の後の勝利には、捕虜の殺りくが伴うことが少なくないからでした。

戦士たちにとっては、戦いの中で死ぬことはともかく、戦勝者の神の生け贄として死ぬことは別の話でした。

もうひとつの風は、少し冷たいものでした。

そしてルブリンにはしばらくの間、それが何を意味するのかわかりませんでした。

 

テレリは立ち上がると、ルブリンに向き合いました。

彼女の着ていたチュニックは、上から下まで血で汚れています。

テレリは言いました。

 

「なぜあなたなの?」

 

テレリが動いたので、それまで影を落としていた場所がたいまつの明かりに照らし出されました。

彼女がひざまずいて覆っていた男はダラでした。

ダラは瞳を半ば開き、半ば閉じて横たわっています。

首と肩の間の血みどろの布の固まりからは、まだ黒々とした血がしみ出ています。

ルブリンは近寄ると、立ったまま見下ろして言いました。

 

「助かるのか?」

 

「わからないわ。」テレリはそう言うと、同じ問いを繰り返しました。

「なぜあなたなの?」

 

「僕は族長の息子だからさ。」

 

「ダラが族長よ。」

 

ルブリンの頭は未だ混乱していて、冷静にものを考えられませんでしたが、それでも彼の中の最も奥深いところで、その事実からダラを、そして敵の目からも遠ざけておいたほうがよい、少なくともしばらくの間はそうすべきだということがわかっていました。

 

見張りの目を気にしながら、声を潜めたまま続けました。

 

「ダラが族長であることは伏せておくべきだと思う。もうしばらくの間は。」

 

テレリは密やかに答えました。

 

「彼なら、我らと征服した奴らの間で耳と口などには決してならないはずだわ!」

 

そして、ルブリンには冷たい風の意味するものがわかりました。

 

族長の荷は、思っていた以上に重いものだったのです。

 

世界は再び、ルブリンの周りで揺らぎ始めました。

気力を振り絞ってようやく姿勢を保つと、妹の前から、そしてダラから、最も遠く離れた薄暗い片隅へと歩み去りました。

そして、ひざから崩れ落ちたかと思うと、心臓が飛び出すかと思うほどに嗚咽し続けたのでした。


第7章 囚われの冬

(1)

 

「奴ら、俺たちをどうするつもりだろう?」誰ともなく尋ねました。

 

「何か使い道があるんだろうよ」ほかの誰かが答えました。

 

「いずれわかるさ。」

 

案の定、征服者たちの目的はじきにわかりました。

今やこの丘砦は、征服者アトリベイツにとっての最前線の要塞でしたが、大部族のそれに相応しい大きさも堅牢さも備えてはいません。

芝土と材木で作られた壁は、もっと南にはり出していなければなりませんし、残った塁壁も補修され補強されねばなりません。

それに堀も、より広くより深く掘られなければなりません。

それは『槍(やり)の支配者』アトリベイツがするべき作業ではありません。

古き人々、暗き肌の民の仕事でした。

しかし、古き人々は戦が始まるとさっさと森の中へ姿を消しました。

いずれふらり舞い戻ってくるでしょうが、それはまだ先のこと。

征服者たちの盛衰を見定め、自分達の番が巡ってくるやも知れぬと様子を窺うことが古き人々の常でした。

ですからその秋と冬の間は、ルブリンとぼろ屑のように生き残った彼の民の仕事だったのです。

 

はじめ、ルブリンの民は無謀にも征服者たちに反旗を翻えして活路を見出そうとしました。

 

ルブリンは全身の力をこめて反対しました。

 

「ただ死にに行くようなものだ、意味がない。我が一族が根絶やしになる、もちろん子供たちもだ。子供たちのことを忘れたのか? こうして・・・」

 

「こうして生き延びるのか・・・アトリベイツの奴らの踵(かかと)を首にのせられたままで。」

 

かつて男子の館でルブリンと一緒だったクノが、軽蔑の色を浮かべた視線をまっすぐ向けて言いました。

 

「いかにも暗い血を持つ奴が言いそうなことだな。」

 

同じようにささくれだったささやき声が周りで沸き起こりました。

微かな鼓動がルブリンの喉の奥で脈打ち始めましたが、それをなんとか鎮めました。

もし仲間同士で争いが始まれば、本当におしまいです。

 

「ルブリンは、我が一族の女の血を分けた者だ!」

 

ダラの声でした。

まだ息の弱いしわがれた声がした方をルブリンが見やると、堤の雨よけ部分で、古い牛皮の敷物にひじをつき、精いっぱい身を起き上がらせようとしているダラの姿がありました。

彼の顔は樺の樹皮の内側から切り取った白い取り木のようであり、その髪は深い傷のために今だ下がらない熱の汗にまみれています。

しかし彼の瞳は、げっそりと深く窪んではいましたが、挑みかかるように大きく見開かれていて、髪の毛はまるで怒った雄鶏の如く逆立って見えました。

 

「これ以上そんな言葉を吐く奴は絞め殺してやるから、俺が立ち上がれるようになるまで待っているんだな!」

 

その時、ルブリンは初めてダラが助かると確信しました。

そして、テレリが生まれたあの日に、族長の炉辺で感じたあの暖かさや力強さと同じものが込み上げてくるのを感じました。

けんかの最中、友の肩が自分の肩に触れたあの時と同じぬくもりが広がるのを。

(2)

 

再びルブリンは一族の生き残りたちと向き合いました。

 

「こうして・・・」

 

さきほどの言葉を継ぎ始めたルブリンの話を、いやいやながらではあっても今は皆が黙って聞いてくれています。

 

「もし我らが心ひとつに待ちつづけられるなら、そう、蒔いた種の実りを待つようにできるなら、再び自由な民に戻るチャンスがいつの日か訪れるはずだ。」

 

「どうやって?」誰かが迫りました。

 

「わからない。」

 

ルブリンには、自らの語る言葉が自分とは別のどこからか聞こえてくるような気がしました。

 

「私は樫の木のイシュトレスではない。彼がまだ生きていたら、彼ならそれを知れたかもしれない。僕はただ、待つことさえ出来たなら再び自由な民になれる日が必ず来る、そんな気がするんだ。これも、僕の中の『暗き』血が言わせていることかもしれないが。」

 

イケーニとアトリベイツの言葉は似通っていたので、互いに何を話しているのかわかりました。

しかし馬の民は、囚われの日から密かに男子の館で使う独特の言葉を用いたので、見張りをはばかることなく話をすることができたのです。

どの男子の館もそれぞれに独自の言葉があって、修練の間はずっとそれを用いますが、成人の儀式が過ぎると二度と用いることのないものでした。

しかし今は、征服者に知られることなく話をすることが何よりも大事なことであり、しきたりなどかまってはいられません。

そしていずれは、女たちでさえもその言葉を使うようになるのです。

 

冬は去り、春が巡ってきました。

ほどなく褐色(かついろ)の雨ツバメたちが『白亜の丘陵』の側面を鎌で鋤くように飛びかいはじめました。

イケーニのダラと一握りの男たちはその深い傷を癒したものの、残りの男たちは殆どの年寄りたちや何人かの子供たちと共に死んでいきました。

何人かの女たちもいなくなっていました。

しかし彼女たちの場合は、古くから女たちがそうしていたように、同胞の男を殺した征服者の元へと去ったのです。

かつてルブリンの一族もそうしたように、アトリベイツも女子供たち家族を伴ってきていましたが、冬が迫る前までに呼び寄せられた者たちもいて、そうした者たちの中に紛れて暮らす同族の女たちを、残されたイケーニの民は遠くから見ていました。

彼らは死んだ者たちの名は口にしても、去っていった女たちのことを話すことはありませんでした。

 

丘砦の普請は、完成に向かって順調に進められていきました。

新しく掘られた堀の白亜層は眩しいほどにきらめき、雨風にさらされて灰色にくすんでいた柵も、新しい材木と取り替えられて黄金色に輝いています。

そして、いつもと同じ一日がまた始まるのでした・・・。

(3)

 

昼になり、手にした斧や鹿の枝角のつるはし、石灰塗料を入れた壷や柳で編まれた土砂を運び出すための大籠を足下に置くと、男たちは一息つきました。

外堀の、広く平らな底に立っていたルブリンは、ふと目にとまった左足のそばに落ちていた鋭い石器を何気なく拾い上げると、地べたに座って指の間で転がしました。

片方の面は紺青色で平べったい形をしていましたが、風化して灰色にくすんだもう片側の湾曲した形は手のひらに気持ちよく収まります。

どうも自然に出来上がったという感じではなくて、誰かが石から切り出し、加工して使っていたもののようです。

それはきっとずいぶん昔、ことによれば丘砦が出来るずっと前のことかもしれないと思われました。

ルブリンは、不思議な気持ちになりました。

いったい誰が、どんなわけでこんな形の石器を白亜の中に埋もれさせたのだろう、と。

彼がそんな思いに耽っていると、丘砦の下に続く芝地を一群の馬が駆け抜けていきました。

堀のなかのルブリンに馬の群れは見えませんでしたが、柔らかなにわか雨のような野生の蹄の音がすぐ近くをかすめ通り、彼方へと消えていくのが聞こえました。

彼の内なる目、額の奥にある暗き瞳には、疾走する馬たちの光景が、駆け抜けるその姿が映っていました。

 

むき出しの白亜がルブリンの傍らにあり、鋭く研がれた石器が彼の手にあります。

ルブリンは無意識に、溝の壁に絵を描き始めました。

それはアトリベイツが来て以来初めての、魔法の絵でした。

先頭の馬を描き、その後に半身遅れて続く馬を描き、そして三頭目を・・・。

彼が描いたのはスビードと力強さ。

たてがみや尾の滲(にじ)むような流れ、ひずめの雷音、踵から休むことなく湧き出る速さでした。

 

まばゆい白亜に影がよぎり、振り返るとそこには族長のクラドックが立っていました。

昨秋の戦の長であり、今やこの丘砦の主であるクラドックはしばしば、新しい防御施設の進展具合を見回っていました。

大股に立った彼は、親指をベルトに差し込み、頭を片側に傾けています。

彼の細い目は、白亜に描かれたひっかき痕とルブリンの顔を交互に見入りました。

 

「お前がやっているこれは何だ?」

 

「今さっき通り過ぎた馬の群れを描いているんです。」ルブリンは言いました。

「あなたには聞こえませんでしたか?」

 

「聞こえたよ。」クラドックはもっと近づいて見ました。

「つまり、先頭はこれで、この馬が続いて、その後がこの馬で ・・・ そしてここにいるのが最後のやつってわけだ。で、間に描かれているこの奇妙な波うつ線は何だ?」

 

「それは群れの本体です。」

 

「しかし、馬だろう?・・・ 馬なのに、なぜ先頭や最後のと同じように描かない?」クラドックは眉をしかめ、不可解そうに尋ねました。

 

「確かにその通りです。でも、群れは全体で一つにしか見えないでしょう。」ルブリンは真剣に説明をしました。「群れの真ん中のどれか1頭に注目しない限り、駆け抜けて行く馬の群れは先頭の2、3頭や最後の1頭の間は一塊にしか見えないでしょう。それが移り行く流れや変化なんです。」

 

「こんな描き方は見たことがないな。」クラドックは言いました。

「お前の民は皆、そのように描くのか?」

 

ルブリンは首を横に振りました。

 

「我が民もあなたの民の様に描きます。あなた方が富を数える商い用の金貨に刻印された馬のように。僕は僕に見えるように描いているのです。誰も僕と同じように見えているとは思いませんが。」


第8章 取引

(1)

 

その時はそれで終いになりました。

それからしばらくたったある晩、クラドックは夕食後の広間で退屈していました。

竪琴弾きが謡う唄はすべて知っているものばかりで、なにか目新しいものが欲しくなっていたのです。

そしてふと、たった数本の流れる線で疾走する馬の群れの速さと力強さを描いた、あの色黒で背の低い族長の息子のことを思い出しました。

 

彼は指を鳴らして武具運びの小姓に合図をし、こう命じました。

 

「フェラダック、捕虜の檻に行って族長の息子をここへ連れてこい。ルブリン・デュとか言う奴だ。」

 

ほどなくして、ルブリンは族長の広間に立っていました。

アトリベイツが来てからというもの、立つことのなかったその場所。

今は族長のクラドックがゆったりと手足を伸ばしている、毛羽だった皮の敷かれた玉座は、かつてルブリンの父が座り、そしてダラがその後に座るはずの場所でした。

もしも振り仰げば、頭上の屋根の梁には煙でひからびた父の、歯をむいた髑髏(しゃれこうべ)があることをルブリンは知っていました。

見上げるべきだということは分かっていましたが、クラドックの顔より上は、見ることができませんでした。

 

「俺のために描いてくれ」クラドックは言いました。

 

驚いたルブリンは、しばらくのあいだ相手を見つめ、そして言いました。

 

「なぜ、あなたのために描くのです?」

 

「何か新しいものが欲しいのだ。」

 

「ならば、竪琴弾きに新しい唄を作らせたらいいでしょう。」

 

「やつはどこかで聞いたような古くさい唄しか作らん。」クラドックは愚痴って言いました。

「だから俺のために描くのだ。そら、この炉石の上に。」

 

「僕は誰かに命じられて絵を描いたりはしない。」ルブリンは言いました。

 

二人の間に3呼吸分ほどの沈黙が、ゆっくりと流れました。

(「殺されたって、奴らのためにあの魔法の絵は描くものか。」とルブリンは思いました。)

するとクラドックは、まるでルブリンの思いが聞こえていたかのように、応えました。

 

「いやいや、お前を殺したりはしない。だがな、お前の民の運命はお前の返事にかかっていることを忘れるなよ。

 

ルブリンの喉元まで、苦いものが込み上げてきました。

それでもルブリンは、彼の一族のぼろぼろになった生き残りたちを思い出して、声を絞り出しました。

 

「何を描けというのですか。」

 

「もっと馬を描いてみろ。」族長のクラドックは言いました。

 

ルブリンは、黒こげになった棒を炉の中から拾い上げると、炉石の横にしゃがみこんで描きはじめました。

それはずっと昔、老シノックの竪琴の唄を描こうとしたあの炉石でした。

(2)

 

ルブリンは、2頭の種馬が闘う様子を渦巻きと荒々しい線とで描きました。

クラドックは膝に腕をのせて前屈みになり、戦士たちとその奥方達も互いの身を重ねるようにして覗き込んでいます。

ルブリンは描いた線をぬぐい取ると、今度は仔馬に乳をやる母馬を描きました。

その次に軍馬のポニーが、戦いを告げる遠くの角笛の音を頭をもたげて聞いていたり、迫り来る危険の匂いを運ぶ風を嗅いでいる様子を描いた後、再びルブリンがその絵をぬぐい去ろうとしたとき、族長は慌てて身を乗り出すなり彼の手首をつかみました。

 

「消すな!そのままにしておけ!」

 

ルブリンは手にしていた黒こげの棒を横におくと、かかとに体重をかけるようにしてしゃがみました。

自分はまるで主人の口笛の合図をじっと待つ猟犬のようだ、そう思いながらそこにしゃがみ込んでいるルブリンと、そんな彼を取り巻くようにして絵を覗き込んでいる戦士たちをしり目に、クラドックは炉石の上に炭で描かれた何本かの線を食い入るように見続けました。

やがてクラドックは手をさし伸ばし、杯運びの小姓から手渡された青銅の酒杯のワインを飲み干すと、座り直してから炉辺に群がっている仲間を見回しました。

 

「俺には考えがある。」

 

「クラドック族長には考えがおありだ!角笛で我らに知らしめよ!」

 

族長の乳兄弟であるアンバーならではの軽口を、炉辺の仲間たちは黙って聞き流しました。

クラドックはいかにも強そうに曲がった歯をニッと覗かせて、頭を横に振りました。

 

「俺には考えがある。炉辺の板石に描かれては煙のようにすぐに消されてしまう馬たちの、何と無駄なことか。俺には考えがある。今やここ白亜の丘にまで前線を押し拡げた我らは、丘陵の古き牧に新たな塁壁を構え、偉大な我らにふさわしいものとして築いたこの丘砦に牧の宿営を定めた。」

 

(そうかい、あんたたちが大きく作った、そう言うんだな! ルブリンは先ほど掴まれた時に痛烈に感じたクラドックの握力と、この冬の間に木材やドロドロの白亜の中で死んでいった老人や病気の男たちのことを思い浮かべていました。)

 

「そしてだ、我々の最前線のこの地の急斜面に、このような馬の像を持つのはいかがかな。丘の中腹の白亜を彫り出せば、ここが我らアトリベイツの最前線基地であることを永遠に知らしめることができよう。」

 

クラドックは両手で膝をピシャリと叩きました。

 

「ここに我らの目印を打ち立てようではないか。草が白亜の丘を覆い、仔馬が生まれる春が何度巡りこようとも変わらぬ標(しるし)を!」

(3)

 

クラドックの仲間の1人が頷きました。

 

「そんな力を宿した馬ならぱ、きっとこの前線を確固たるものとしてくれる違いない。それに太陽の神ラーもお喜びになって、我々に多くの仔馬と多くの息子たちを授けて下さるだろう。」

 

「まさしく」年配の男がしかつめらしく言いました。

「そうだ、そんな立派な馬を我ら太陽神の民・アトリベイツの標としたなら、太陽の神もきっとお気に召されることだろうて!」

 

そんなおしゃべりがひっきりなしにルブリンの頭上を行き交っていましたが、再びクラドックがルブリンに話しかけました。

 

「お前にその技はあるか? お前にそのような馬の像が作れるか?」

 

丘の中腹を掘り出して、芝の緑の中に白く映える馬の姿。

ルブリンにはそれが見えました。

と同時に記憶が、魔女楡の木の枝に寝そべって葉をかざすと父の丘砦や丘全体を覆い隠してしまえることに気付いた日の記憶が、微かに甦ってきました。

あんなふうにすれば出来るかもしれない。

最初のスケッチをとても小さく描き、それをかざして、どこに線を置けばいいか確かめれば・・・。

 

「分からない。」ルブリンは言いました。

「そんな大きな馬は巨人の仕事でしょう。でもやり方はあるかもしれない。」

 

「よし、新しい外壁もほとんど完成したところだ。お前の民を必要なだけ使って取りかかれ。」

 

「助けなどいらない。」ルブリンはそう言うと、立ち上がりました。

 

「あれほどの量の芝土をひとりだけで取り除くなど、まさに巨人の技だぞ。お前には他の者の手が必要だ。」

 

「あなたは勘違いしている。我が民の助けは不要だ、あなた方の太陽の馬を丘の高みに作るつもりなどないのだから。」ルブリンはきっぱりと言いました。

「方法はあると思う。でも、それを考えるつもりはない。」

(4)

 

睨み合うように互いを見つめるルブリンと族長を、戦士たちは息をのんで見守っていました。

 

「俺に向かってそんな口をきくとは、あまり賢いとは言えんな。」ついに族長が口を開きました。

「お前が俺に殺されることを恐れていないことは良くわかった。 だが言ったはずだ。 お前の民の命はこの俺の掌中にあることを忘れるな、と。」

 

そう言いながらクラドックは、ゆっくりと拳を結びました。

関節が黄白色になるほど握りしめた指の間からは、潰された木いちごのように黒ずんだ血がドロドロと流れ出すかと思われるほどでした。

それは言葉よりも多くを語っていました。

再び訪れる、群がるハエのように重苦しい沈黙。

やがてルブリンは、征服者の目を見てこう言いました。

 

「あなたが仰るような馬は、心を込めずに作ることなどできない。民を人質に僕を脅し、馬を作らせることが出来たとしましょう。しかし神々は、誰かに無理強いされたものに命を吹き込んだりはなさらない。明かりの灯されないランプのごとく、僕が作り上げるものには何の力も意味もありません。あなたが手に入れる馬は、持ち続けるだけの価値あるものではないのです。」

 

そう話しながら、ルブリンは自分の中に静寂が流れ続けているのを感じていました。

その静寂の奥深くから、彼がなすべきことを告げる声が聞こえます。

同時に、ルブリンは気付いていました。

それはあまりに悲しく、また意外でもあったこと。

そう、この玉座に座る金髪の男、一族の命を守るために戦ってきた相手に、かくもたやすく親しみを覚えたということでした。

ルブリンは、梁の上に置かれた黒ずんで萎れた頭のことを思い起こしました。

死者と目を合わせるように顔を上げると、心の中で叫びました。

 

「我が父ティガナンよ、あなたは戦車の突撃を指揮する以上の困難を背負うだろうと仰(おっしゃ)いました。僕は何としても我が民を救います。それが何よりも大切なことだから。いま為すべきことはほかにありません。」

 

そしてルブリンは視線を落とすと、生きた男の細くて青い眼差しを見つめました。

 

「クラドック、征服者の族長よ、あなたが望む太陽の馬を丘の高みに作りましょう。心から喜んで・・・あることと引き換えに。」

(5)

 

クラドックは眉を上げました。

 

「ルブリン、征服された族長の息子よ、どんな取引だ?」

 

「もし僕が作り終えた暁には、我が民の生き残りを解放してもらいたい。そして、別の土地で新たに群れを成せるだけの十分な数の種馬と牝馬を与えて欲しいのです。」

(ルブリンは心の中で、何年か前に行商人から聞いた「ヘーゼルの森からヒースの平原にかけて、そこここに良く繁る牧草」のことを思い起していました。)

「彼らを行かせて下さい。」

 

「ずいぶんと値が張るな。」クラドックは言いました。

 

「もちろん、太陽の馬の出来に納得してもらえたら、ですが。」

 

「もっともな言い分ではあるな」

 

酒杯のワインを見つめていた族長が、不意に顔を上げました。

 

「そう、ならばそうするとしよう。さっきも言ったが、新しい塁壁も完成したも同然だ。古き民も奴らのしきたり通り、這い戻り始めている。もし、俺を満足させる太陽の馬を作ることが出来たなら、お前の民は自由にしてやろう。これは、お前と俺の間の取引だ・・・さて、今宵の馬の絵は見応えがあったぞ。」

 

ルブリンは族長の広間を後にしました。

彼は広間にいるあいだ中、ずっと気付いていたのです。

互いの間で語られない、考えられさえしない何かが、奥深くで待っていることに。

(6)

 

その夜遅く、丘砦を巡る内堤と外堤の間に置かれた檻でルブリン・デュは、族長の炉辺での出来事を話して聞かせるため、ぼろ布のようになった一族の生き残りを集めました。

しかし、かまどの火と昇りゆく月の光が入り交じる中で、こちらを向いている一人一人の顔を見渡すと、なかなか口を開くことが出来ません。

端(はな)から楽なこととは思っていませんでしたが、思うよりずっと難しいことでした。

 

クノが尋ねました。

 

「ところで族長の耳と口さんよ、族長は何をお望みだったのかい?」

 

「炉石に馬を描いて、竪琴弾きの唄に飽きた自分を楽しませろと。望みどおりたくさん馬を描いたら、今度は太陽の馬を作れるかと言ってきた。北の斜面の芝地に彫り込んでだ。丘の中腹にアトリベイツの境界の標(しるし)を作れと。」

 

「それでお前はなんて言ったんだ?」

 

「分からないと言った。その気になれば方法はあるかもしれない、と答えた。」

 

「それであんたにはその気があるのか?」

 

別の誰かが言いました。

クノは、灯りの方へ身を乗り出すと

 

「お前は族長が命じたことを拒んだのに、こうして易々と戻って来れたというのか? お前の腹にはまだ腸が入っていて、肩には頭が乗っかってるっていうのに? 鵜呑みにできないな。」

 

「いいや」ルブリンはゆっくりと言いました。

「拒んだわけじゃない。あることと引き換えならやってみると言った。」

 

ルブリンの妹テレリが話に割り込みました。

空の月明かりに照らされた顔は、蒼白の仮面のようです。

 

「あなたの仕事はさぞや簡単なことでしょうね。あいつらの金貨に描かれた馬を真似て描けばいいのだから。あなたに支払われる金貨に描かれているのなんてどうかしら?」

 

彼女の声はその顔色と同じように激しく、そして冷たく責め立てていました。

残りの者たちの沈黙も、ルブリンを責めているように感じられました。

 

「あの馬の尻尾は駄目だ。」

 

思わずルブリンが言いました。

それがさも重大なことであるかのように。

 

「我らの馬の尻尾は、もっと違ったふうに生えている。」

 

「でもあなたが作るのは、あいつらの馬なんでしょ。」

 

「ああ、確かにあいつらの馬、アトリベイツの太陽の馬さ。でもそれは月の馬、我ら一族の馬でもあるんだ。こうして森の向こうに丘陵が続き、仔馬の母なるエポナの神に人々が祈りを捧げ続ける限り、ここにイケー二が居たことを知るだろう。」

 

森の中ではからかうようにフクロウが鳴き、月の光のように冷たい静寂があたりを包んでいました。

ルブリンは寒気を感じると同時に、誰もがテレリと同じように自分を裏切り者だと思っていることを知ったのです。

そしてしばらくの間、怒りと深い悲しみから、その誤解を解くための言葉を見つけることができませんでした。

(7)

 

冷たい沈黙を破ったのはダラでした。

 

「お前の話した取引とは、金貨の馬のことではないだろう。それがなんであるか話して欲しい、ルブリン、私の兄弟よ。」

 

「そうだ」十数人の声がそれに応じました。

「それを聞かせてくれ!」

 

「僕は族長のために、丘の中腹に太陽の馬を作ってみようと言った。そしてもし、僕が作り上げた馬を彼が良いものだと思ったら、我ら一族の生き残りを自由にしてくれと。ここより別の地で、新しい馬の群れを育てることが出来るように、十分な数の種馬と、子をはらんでいる牝馬をつけたうえで。」

 

不平をつぶやく低い声が、聞き手側からあがりました。

すかさずダラが言いました。

 

「そうか!それこそまさに取引に値する!」

 

すると誰かがダラの後ろの暗闇でこう言いました。

 

「だが、奴はその取引を守るのか? 馬が完成しても、良い出来ではないと言えばすむ。」

 

「クラドックは取引を守るよ。」ルブリンが言いました。

「そして僕も自分の分を守る。」

 

ルブリンはダラの瞳を探し、2人は見つめあいました。

言葉にはしなくとも、北へと旅立つあの日の夢が思い出されていました。

ルブリンとダラの2人で共に、一族を導く夢を分ちあったあの日。

その後、ダラがテレリの結婚相手に選ばれて、次の族長になったあの宴。

もしも夢が現実になったとしても、ルブリン独りで先導して行かねばならないと知ったあの日。

そして今、現実は別の形であらわれたのです。

一族を北へと導くのはダラであり、そのときルブリンは・・・・。

 

突然、ルブリンが族長の広間で感じた何か、言葉にもせず考えもせぬままにしたあのことが、ぐるぐると頭の中を巡り始めました。

ルブリンはそれを闇のなかへと押しやり、見ないようにしました。

今はまだその時ではないのです。

 

「手助けが欲しい」ルブリンは言いました。

「芝土を切り抜いて、白亜を運び出すのに。」

 

「我々を使ってくれ。」

 

ダラは身振りで自らそう申し出ると、クノがそれに付け加えました。

 

「今までだってさんざんやらされてるしな。」

 

そしてテレリも女たちの間から進み出ると、恥ずかしそうに腕をさっと伸ばし、ルブリンの手首にかすかに触れて言いました。

 

「私も白亜を運びます。分らなかった私を許して。」

 

それでもルブリンのひとりぼっちの寂しさは、捕われた最初の晩に感じ始めたあの孤独は、深まることはあっても消え去ることはありませんでした。


第9章 鷹と神々と地に住む人が見るもの

(1)

 

次の日、ルブリンは丘砦から出ると、つぼみが膨らみはじめた9本の聖なる林檎の木の脇を通り、谷間の森を抜け、開墾地の外れにある魔女楡の木まで下ってきました。

たった一人で。

槍を持った見張りが二、三人は付くかと思っていたルブリンは、クラドックがそうしなかったことに初めは驚きましたが、今はその訳がわかります。

自分の民が未だ丘砦に捕われているのに、ルブリンが一人で逃げるはずもないことは、クラドックも十分承知しているのです。

 

紫の小さな花の房をたくさんつけた大樹を登っていくルブリンを、花のむせるような香りと蜂の低い羽音が包みます。

と同時に、隠れ家やふる里に戻ったような懐かしい感覚が、まるで待っていたかのように彼を包み込みました。

慣れた順路でよじ登り、体を揺らして枝から枝へとわたり、空と木々の境が見渡せる高さまでぐんぐん登っていくと、ルブリンはお気に入りの枝の上に横たわりました。

目の前には低地の伸びやかな広がりや、遠くに波の様にうねる丘陵が父の丘砦へと盛り上がっていく景色が広がっています。

 

それは彼自身の一部であると思うほど馴染んだ景色でしたが、いま改めて眺めると、これまではあまりよく見てこなかったように思われました。

まるで日の出とともに盛り上がった丘が、西へ西へと延びて行き、沈み行く太陽とともに没しているような、ゆったりと長い丘の連なりです。

深く落ち込む谷間やくぼ地に急に突き出た場所があっても、その頂に丘砦を乗せていても、稜線の緩やかさは損なわれていません。

それはまるで、白亜の丘陵が西へ向かって首をもたげているようにしか見えませんでした。

 

 

「いざっ」末の息子は言った

「たてがみ高く、荒ぶる馬の群れを従えて、

行く手を西へと定め、

銀の林檎の実る地を目指し、我に続けっ!」

 

 

シノックの竪琴が奏でるいにしえの詩とそのリズムが、ルブリンの心の奥をかすめました。

彼は肩に掛けてきた鹿皮の鞄を手前に置くと、何枚かの銀の樺の皮と、古布に包んだ木炭の棒を取り出しました。

ルブリンの瞳は、丘と空とを分かちながら昇りくだりする見慣れた稜線を、丘陵の盛り上がりやくぼみに踊る光の変化をとらえていました。

丘砦の下から少し左寄りにかけてある、丘陵の裾から平べったい小さな丘が盛り上がっている場所・・・そこは、魔法の槍を守るドラゴンがとぐろを巻いて眠っているという古い伝説の地です。

そしてその背後では、早くも春の明るい緑色を帯びた白亜の丘の北側の急斜面が、空との境に今にも飛びかからんとしています。

あの空との境の下のどこかに・・・ルブリンは思いました・・・馬が描かれるべき場所があるはずだ。

(2)

 

ルブリンは樺の木の皮に絵を描き始めました。

族長の広間で炉石に描いた、緊張と警戒感を漂わせてたたずみ、風の匂いを嗅ごうと頭をもたげる馬を再び描いていったのです。

それは戦を告げる遠い角笛の音を聞く戦闘用ポニーであり、あるいは群れを守ろうとしている種馬の姿でした。

そのような馬の絵は、押し拡げた辺境の標(しるし)に相応しいものです。

 

一日中、ルブリンはお気に入りの枝に横たわって丘陵の斜面を見つめ、斜面と馬とが一つのイメージとなるまでデッサンを繰り返し、やがて線を走らせるべき場所を悟ったのです。

それは、あそこのさんざしからあのくぼ地の縁まで、そして曲がりくねった古い馬追い道へと連なるなだらかな起伏の下まででした。

 

ルブリンは、その全ての見取り図を最後の樺の木の皮に描きつけると、夕日に長く伸びる影とともに木から降り、丘砦へと戻りました。

夕暮れの薄暗がりが深い闇になる頃、そして族長の広間でも捕虜の檻でも夕げが済んだ頃、ルブリンは再び族長クラドックの玉座の前に立っていました。

 

「丸一日眺めてみて、どう線を走らせればよいかわかったので、いつでも作り始められます。 明日、谷間の森へ行って樺の若木を切り倒すことをお許し願います。 塁壁の材木を白く塗るために使った石灰と、牛革を10枚頂きたい。 そして我が民から選んだ者たちを連れていくことをお許し下さい。 そうすれば二日のうちに、ドラゴンの丘の上の斜面に最初の線を引いてみせましょう。」

 

「お前は、そんな少しばかりの牛革と若木と石灰塗料で、お前の頭の中にある線を丘陵の斜面に描こうというのか?」族長は興味深げであると同時に訝しげに眉をひそめました。

「どうやったらそんなことができるというのだ?」

 

ルブリンは首を横に振ると、

 

「しばらく時間を下さい。このようなことは今までしたことがないし、誰かそのようなことをした者を知っているわけでもありません。だから僕はその秘密を、やりながら身に付けなければならないのです。それまではお話しできません。」

 

「なかなか正直な物言いだ。」族長は言いました。

「明日ではなく3日のうちに、新しい門の防御柵が完成したら、牛革と石灰、樺の若木を切り倒しに行くこと、そしてお前の民からいくらでも助けを選ぶことを許そう。」

(3)

 

3日後、ルブリンとダラは、自ら名乗り出て加わった男たちとともに谷間の森へ降りて行くと、樺の若木を切り倒し、へびのように曲がりくねる路を苦労して運び上げました。

今回は、槍を持った兵たちが全ての作業を監視しています。

というのも、捕虜の男たちのほとんどが作業に加わったので、クラドックはルブリン独りの時のように信用するわけにはいかなかったからでした。

必要な材料を切り出し、ルブリンが選び、作ることを許された丘の斜面のすぐ近く、尾根道の真下まで運んで積み重ねるのに、丸々2日ほどかかりました。

それが済むと、今度は縁(ふち)を整えた牛革に石灰をしっかりと塗り、遠くからでもはっきりと新緑の芝の上に白く浮き立って見えるようにしました。

こうしてようやく、ルブリンの準備は整ったのです。

 

馬の額や鼻、首、横腹や尾、がっしりとした4本の脚の位置として目星をつけた場所に、ルブリン達が牛革の印を付け始めた日の天気は荒れていました。

西からの突風が春の牧草や白い羊毛のようなさんざしを吹き抜けると、空で歌っていたヒバリを追い散らし、牛革をはためかせて石灰の塵の雲を巻き上げ、作業をする者たちの顔に吹き付けました。

そのせいで、目はひりひりと赤く縁取りされたようになりました。

ルブリンは大声を張り上げて、ダラやその他の者たちに指示を出しました。

 

「二つ目のさんざしの方へずっと行ってくれ。40歩くらい。違う違う、少し上り過ぎだ。クノ、そこで止まってて、僕が左に行くまで。ダラ、これに木釘を打つのを手伝ってくれ・・・」

 

それ以外は何も話しませんでした。

とくに話すことが見当たらなかったのです。

ルブリンは慣れ親しんでいるはずの斜面で、奇妙な違和感を覚えていました。

絵を描く時にはいつも感じていたあの魔法の気分が、少しも味わえないのです。

それは、丘砦に新しい堀を作っていた時と変わらない、生き生きと夢中になることの出来ない単調な作業でした。

そしてかわりに感じられたのは、中途半端な手応えのなさでした。

おそらくそれは、作業が広範囲に渡るために、全体像が確認できないせいかもしれません。

望みどおりの線を描けたときもそうでないときも、今回のように心に浮かぶものたちの鼓動を感じることなく絵を描くなどということは、これまでルブリンにはなかったことなのです。

 

丘の斜面から十分離れた所から自分たちが作った形を眺めた時、ルブリンは全てうまくいっていることを確かめ、ワクワクする魔法の感覚を感じることができました。

しかし彼らが全ての革を適切な場所に置き、そこから飛んでいかないように木釘を打ち付けたり白亜の固まりで重しをしたりする間、こぬか雨を吹き上げながら裏手の低地の森を吹き荒れた風が、これでもかというほどの湿気を吹き寄せてきました。

そのため、雨が上がった白亜の丘陵の上で再びヒバリが鳴き始めた翌朝になって、ようやくルブリンは丘砦を飛び出すと、谷を横切っていつもの見晴らしの場所へと向かいました。

その道中、ルブリンは後ろを見ないように気をつけました。

眺めるのにふさわしい場所にたどり着くまでは。

(4)

 

ルブリンは、昨夜の湿気が牛革に塗った石灰をすっかり洗い流してしまい、遠くから見ることが出来なくなっているのではないか、と心配でした。

しかし、ようやく辿り着いたお気に入りの枝の先端の、もつれた小枝をかき分けて眺めると、ちゃんとありました。

雨上がりの朝の透明な光の中、容易に跡をたどることができます。

 

ルブリンはしばらく横たわったままで、露出させた白亜で印から印へと引かれる白い輪郭線をイメージしてみました。

鼻から耳へ、首から背中そして尻尾へ、前脚から首の曲線へ駆け上がり、再び頭へと繋がる一筆書きの線を。

 

良い馬になりそうだ。

でも、いくつかの印は場所をずらさなくては。

隣との間隔の倍近く右へ移動させなければならないものもあれば、同じくらいの距離を丘の上に移動させなくちゃならないものもある。

 

ルブリンはそう思いました。

しかし丘の斜面の勾配を捉えることは、容易なことではありません。

谷間の空では、ノスリが歌いながら円を描いています。

広げた翼の端が、舞い上がる風を受けてかしげています。

かすかな鳴き声が聞こえてきた彼方を見上げたルブリンは、あの大きな鳥の様に空から一望できたらいいのにと思いました。

 

煌めく空の絶壁に向かって円を描いて飛び、空へと迫るように眼下に広がる丘陵がゆっくりと体の下で回っている。

そうすればわかる・・・・いいや違う。

それじゃあ解決にはならない。

あの馬はいつだって地上の者たちから見られなければならないのだから。

誰もあんな高みから見ることは叶わないのだ。

それができるのはノスリやその仲間、そしておそらくは神々だけ。

 

ルブリンはそう考えると混乱して、頭だけでなく心まで痛くなりました。

一つだけ確かなことがあります。

 

あそこにある二つの印を移動させなければならない。

僕は出来る限りのことをする。

人として。

神としてではなく。

 

ルブリンはぐったりとして魔女楡の木を降りると、再び丘砦とその征服者の元へ、ルブリンの民であるぼろぼろになった仲間の捕虜たちの一団の元へと戻って行きました。


第10章 族長に委ねられた道

(1)

 

それから数日の間、ルブリンたちは樺の幹にも石灰を塗り、印を付けた場所に次から次へと置いては、留め杭を打ち込んで急斜面から転げ落ちないようにしました。

そうしてそこから牛革を取りのけて、次の行程で再び印を付けるために集めておきました。

ようやく、馬の輪郭が丘陵の斜面に浮かび上がりました。

しかしそれは馬には見えず、まるで巨人が何かのゲームをするために石灰を塗った若木を芝地にでたらめに並べた迷路のようでした。

 

「これが馬か?」

 

ダラは、額についた石灰の汚れを手の甲で拭いながら、訝しそうに言いました。

 

「もっと遠くからならそう見えるさ。」

 

ルブリンは応えると、夕映えの空に鳴きながら円を描くノスリを見上げました。

夕日が翼を照らしています。

 

「あの鳥には、馬に見えると思うよ。」

 

「でも俺たちには翼がない。」

 

「ああ、でも谷間の向こうから見れば同じさ。今日はもう暗くなってしまったけれど、明日の朝、僕はあの木に登って、これが馬になっているかどうか見てこよう。」

 

その夜、古いマントに縮こまった身を包み、空が灰色に明け白むまで星々の旋回を見つめていたルブリンは、東の空にプリムラの花のような夜明けの微光が差すまで一睡もしませんでした。

来るべき日は、人生が変わるか始まるか、終いになるか、はたまた大きく広がるかのいずれかになると感じながら。

 

朝になり、丘砦の下手の森では鳥たちの歌声が響き渡っています。

ルブリンは、女たちが注いで回る朝食のバターミルクを飲み干すと、大麦パンには手を付けずに、さんざしの枝で作られた檻の出入り口へと向かいました。

そんなルブリンを目で追う他の者たちの視線が、背中に感じられます。

ダラはルブリンと共に出かけようと体を起こしかけましたが、ルブリンは一人で檻から出ると丘砦の門へと向かい、槍を持った警備兵たちもそのまま彼を通しました。

 

そうして独りで魔女楡の木まで辿り着くと、彼はいつもの枝まで這い登り、平坦な大地を見渡してから白亜の丘の斜面を見上げて、白く塗った樺の棒で描いた輪郭がはたして馬の姿となっているかどうか確かめました。

 

それはまぎれもなく馬でした。

脚も尾っぽも、何から何まであるべき場所にあります。

頭は少し小さめでしたが,大きくすることは造作もないことでしょう。

誰もがすぐにそれが馬であり、雄牛や猟犬でないことがわかります。

それでも、全ては失敗だったのです。

脚を落として頭を上げた棒立ちの姿では、日が昇る場所から没する場所まで続く丘陵の流れる稜線を損ね、そこで目が止まってしまうのです。

まるで剣で断ち切られたように、とルブリンは思いました。

剣で断ち切られる・・・そう、つまりは死だ。

あの馬は死んでいる。

輪郭は馬でも、そこに宿るべき命が空(から)なのだ。

 

彼が抱いた感覚は、大風の日に丘陵の斜面で石灰を塗った牛革と格闘した、あの時のものと同じものでした。

(2)

 

ルブリンはまだ枝に横たわったまま、さてどうしたものかと長いこと考えていました。

そうしている間にも、春の朝の光はルブリンの上を巡り、芽吹いた楡の小枝を抜けた木漏れ日が作る、美しい網細工のような影が揺れながら流れていきました。

谷間の空には、あいかわらずノスリが大きな円をぐるり描きながら鳴いています。

ルブリンは、クラドックや彼の一族、もしかするとルブリン自身の民でさえ、ルブリンが見るようには見えないのだろうとも思いました。

 

多分、このまま仕事を続けて白亜の大地に馬を切り出しても、誰も何かがおかしいなどとは思わないだろう。

自分だけが知っているのだ。

自分が負うべき契約を果たしていないことを。

自分に見えているものに嘘をつくことを。

 

そして、それが自分が創ることの出来る最後の絵なのだと思うと、嘔吐(えず)くような感覚がこみ上げて来ました。

 

最後の絵。

 

その全ての意味を半ば悟りかけたとき、獲物を見つけたノスリが空から真っ逆さまに急降下して、丘陵のすそ野へと飛び去ってゆきました。

何かが死んだのです。

死んだものが悲鳴を上げたとしても、遠くにいたルブリンには聞こえてはいませんでしたが、まるで手の中で起こったことのようにはっきりとその小さな死を感じました。

 

刻(とき)の裂け目に落ちたルブリンの目の前に、クラドックとの間で語られもしなければ考えられもしなかったことが闇の彼方からその姿を現すと、彼はそのことをずっと前から知っていたことに気づきました。

2人の間で取り交わされた契約の最後の封印。

それはルブリンの死でした。

彼の血、彼の命が注がれることによって、彼の創り出す神の馬に命が宿る。

ちょうど古き民が七年に一度、畦の溝に蒔かれた小麦の種に豊穣をもたらすため、人の血を注いできたように。

 

ルブリンは固く握りしめた手が震えているのに気がつきました。

心臓はまるで狩りをしている時のように早く脈打ち、胃がかき回されているように吐き気をもよおしました。

やっとの思いで手を開いたルブリンには、落ち着きを取り戻していくその手が、まるで他人のもののように感じられました。

吐き気が収まると、少しずつ心臓の鼓動も落ちついてきました。

枝に寝そべりながら、ルブリンは、ぼろ切れのような彼の一族のために己が死ぬことを受け入れました。

それは至極当然のことなのです。

民と神の間に立つ王の正道であり、族長の進む道。

必要とあらば、民のために死ぬ。

それがこの世の常だったのです。

ルブリンは族長の息子の生き残りであり、馬の創り手でもあります。

しかし、そのことを受け入れるために、ルブリンには少しの時間が必要でした。

丘砦の檻に戻り他の者たちと向き合う前に、ルブリンには、楡の大木の力強さと静寂が必要でした。

横たわる彼の中にゆっくりと静けさが訪れ、前の晩に一睡も出来なかったことを取り戻すかのように、ルブリンはつかの間の眠りについたのです。

(3)

 

長いあいだ見ていなかった遠い日の白い牝馬が、ルブリンの夢に現れました。

浅い眠りのなかで白昼夢のように映っていた白い牝馬が、目覚めるルブリンの意識の中で遥か丘陵の斜面に重なって見えました。

やがて夢は消えてゆき、ルブリンは覚醒の世界に残されました。

それでも彼は、その二つを同時に見たのです。

馬を、あの白き牝馬を、白亜の丘の急斜面の高みに描かれるべきものを。

日が昇る場所から没する場所まで続く、丘陵の流れる稜線にのって駆けいく牝馬の姿が見えたのです。

それはまるで、眠るルブリンにエポナの女神がそっと触れて

 

「ご覧・・・こうすればよいのだよ。」

 

と告げたかのようでした。

 

影が長く伸びた魔女楡の木から降りると、ルブリンは帰り道を歩き始めました。

しかし、まっすぐ丘砦へ戻ることはせず、東へと迂回してドラゴンの丘の背後の目も眩むばかりの斜面を登っていくと、樺の若木を並べて作られた、命の宿らぬ形が配された芝の空地へとたどり着きました。

なぜそこへ行ったのか、自分でもわかりません。

既に日が暮れて出来ることなどないその場所に、彼は呼ばれて来たのです。

そうして、明日新たに引こうとしている線を思い描いていると、背後から馬の蹄の音が聞こえました。

もしや、さんざしの花のように白い牝馬では、と半ば期待して振り向くと、そこにいたのはクラドックでした。

お気に入りの赤い種馬に跨がり、飛び跳ねる猟犬を二頭従えています。

かつてはティナガンのものであったその馬は、絶壁のような斜面もヤギのように確かな足取りでした。

クラドックはその馬を手綱で御しながら、ルブリンを見下ろしています。

クラドックの背後から樺の若木に向かって吹く風に、クラドックの羽織るサフラン色のマントがはぎ取られそうになびいていました。

(3)

 

「不思議なものだな」クラドックは言いました。

「ここからだとさっぱりわからんが、谷間の向こうからはちゃんと馬に見える。首尾よく進んでいるようだな。」

 

自分を見下ろす、目障りなほど青く輝く瞳を見つめながら、ルブリンは思った通りだと悟りました。

もしルブリンが望めば、馬はこれで終わりにすることができるのです。

そしてルブリン以外は誰も、契約が果たされていないことを知る由もないのだと。

夢を裏切ったことを知るのは、ルブリンだけ。

歌であれ、剣であれ、丘の中腹に白亜を切り出して描く馬の姿であれ、新たなものを生み出し世界を創る者たちの前に映る光景に、目を塞ぐのだ。

 

ルブリンは首を横に振りました。

 

「うまくなんて行っていない。この馬には命が宿っていない、こんな馬じゃ駄目なのです。でも、今はどうすればちゃんとしたものができるかわかっている。だから明日になったら、始めからやり直します。」

 

「もし、俺はこの馬で十分満足だと言ったら?」

 

「僕も満足させるものでなくては。」ルブリンはそう言うと、急に微笑みました。

「そうです。僕が馬を作り、あなたが良いと思えば我が民は自由になれる、そう契約を交わしました。でも、もしこれが僕の作り出す最後の魔法の絵になるのなら、僕の中の最高のものを作らせてください。」

 

身を切るような沈黙が少し流れました。

赤い種馬が頭を振り上げ、乗り手が手綱を引いたかのように、急な芝地を横へと脚を踏み出しました。

 

「僕がただの時間稼ぎをしてるとでも思いますか。」ルブリンは言いました。

「ほんの少しでも生き長らえようと? それじゃあ死んでも死にきれない。」

 

ついに二人の間でその事が明らかなものとなりました。

 

首を横に振るクラドックの表情は、自分もそのことが目の前に現われるまでずっと闇の中に潜めておいたのだ、そうルブリンに告げています。

 

「馬が完成したら、それが僕たちのどちらにも良い出来だと思えたとき、僕の準備は整う。」ルブリンは言いました。

 

白亜の丘の空高くヒバリが歌っています。

夜風にゆれるように流れるように歌っています。

クラドックは言いました。

 

「祭司らは求めてはおらん。」

 

「彼等には要らぬことでしょう。」ルブリンは目に入る暗色の髪を後ろにかきあげました。

「これは族長が決めることだとわかっているのです。あなたと僕の間の、そして一族と神々の間の決めごとだということを。」

第11章 大いなる孤独

(1)

 

ルブリンが檻に戻るころには夕闇はすっかり深まり、かまどの火が辺りを照らし始めていました。

問いかけるような皆の視線がルブリンに注がれる中、ダラは繕っていた革ひもから目を上げて尋ねました。

 

「白い馬は上手くいっていたか?」

 

「いいや」ルブリンは応えました。

「そうでもない。クラドックには別に文句はなさそうだけどね。」

 

「それが何より肝心なこと。」テレリが女たちのなかから口を挟みました。

 

「いいや」ルブリンはもう一度否定しました。

「それはたいしたことじゃない。」

 

ルブリンは、かまどの火の明かりに浮かぶ一族の民の顔ひとつひとつを、はっきりと見極めるように見渡しました。

この者たちのために自分は死んで行くのだと思いながら。

 

「ほかに何があるというの?」

 

テレリは、まるで何かを封じ込めようとするかのごとくに食って掛かりました。

 

「仔馬の母なるエポナの神にふさわしいかどうか、それが肝心なんだ。」ルブリン・デュは応えました。

「馬に息吹を注ぐため、最後は僕の命を捧げて仕上げる。だから、僕が死ぬに値するものかどうか、それが肝心なんだよ。」

 

ぼろ切れのような姿の者たちの間にかすかなざわめきがおき、そしてすぐに止みました。

ざわめきの中に驚きの様子はありませんでした。

彼らもまたそのことを知っていたのです。

沈黙のなか、ひとりダラだけが繕いかけの革ひもから視線を上げると言いました。

 

「俺が新たな族長だ。一族が生き延びるために死ぬのは、俺の役目だ。」

 

「いいや」ルブリンは言いました。

「新しい族長である君の、君とテレリの役目は、北にある新たな牧へと一族の皆を導いていくことだ。僕は古い族長の息子で、馬の創り手なんだ。これから為すべきことをエポナの女神が示してくださった。死は僕の務めなんだ。」

 

今やそれは、まるで朝に花を開いた白い昼顔が、夕べにはその日限りの命を全うした花をつぼみの形へと閉じるような、損なわれることもなければ逃れることもできないひと巡りのように、とてもはっきりとしたことなのです。

ルブリンはダラの隣に腰掛けました。

 

「明日、もう一度最初から始めよう。」

(2)

 

ルブリンたちは、石灰を塗った革で印を付けた場所に若木を置いていく作業を、もう一度やりなおし始めました。

ルブリンは、丘の急斜面と作業を見晴らすあの木の間を、行ったり来たりしています。

そこに描き出される線は、まさにルブリンがエポナの女神に触れられたかのごとく、全く狂いはありません。

いまや前のようなうわべだけの馬ではなく、かつて彼が捉えようとした飛び交うツバメの動きや、かき鳴らされる竪琴の調べの魔法の絵に、とても近づいたものになっています。

 

一本の長く麗しい線が、首から背へ、そしてたなびく尾へと途切れることなく流れ、すらりとした胴はいちばん広いところでも大股歩きで4歩強の幅なのに対して、点で描かれた耳から尾の先端までは大股歩きで120歩以上もあります。

頭の形はハヤブサのそれに似ていますし、互いに遠く離れた場所に配された2本の脚は、胴体と接してさえいません。

それで良いのです。

雲の影が漂いヒバリの歌が響く丘の高みに作っているのは、形だけの馬ではないのですから。

彼が作っているのは馬の、エポナの女神そのものの力強さや美しさ、そして未来へと伸びゆく力なのです。

征服者たちがそのことを知ることは決してないでしょうが。

 

ダラとほかの者たちは、自分たちがやっている奇妙な作業について何も言いませんでした。

全体を見渡すにはあまりに近すぎて、草の上にまき散らされた印しか見えない彼らには、それが何なのか知りようがありません。

北に向かって旅立つ日に、谷の向こうから振り返って見るまで、それを知ることはないでしょう。

彼らはルブリンの指図どおりに働きました。

まるで祭司の命令に従うがごとく、牛革を石灰が塗られた若木に再び置き換え、牛革をぐるぐると渦のように切って槍のひと投げの距離よりも長い幅広の紐を作り、それを若木で引かれた大雑把な下書きと置き換えて木釘で留め、より精巧な輪郭を形作りました。

そうした作業が進むなか、誰もが、テレリやダラでさえも、ルブリンの影を踏まぬよう気を配っていました。

太陽が作る影も、月が照らし出す影も、夕闇に沈む檻の中でかまどの火明かりが投げる影さえも。

そうしてルブリンは、以前とは違った意味での孤独を一層募らせていったのです。 

(3)

 

木釘で打ち付けた輪郭が出来上がった日の夕暮れどき、ルブリン・デュは馬の鼻先からぐるっと全体を一巡りして、また鼻のところまで戻ってみました。

魔女楡の木から眺めたわけではないので、細長い生皮が象(かたど)るすらりとした形を見渡せたわけではありません。

しかし、芝を踏む足の感覚は、全てうまくいっていることを物語っています。

 

「明日、芝土を剥がし始めよう。」

 

ルブリンは、少し離れて後ろをついてきたダラに言いました。

 

「そんなに急いで?」

 

のどの奥がかすれたような声で、ダラが応えました。

ルブリンは西の方を見ています。

長くたなびく羽根のような雲が、沈み行く陽の炎に触れていました。

 

「取り除くのは芝土だけじゃない、白亜の表面も全て削って、真っ白な部分が出てくるまで掘り出さなくてはならないんだ。それにはかなりの時間がかかると思うし、作業をやり直さなければならないこともあるかもしれない。天候が荒れることだってあるだろう。それでも全ての作業を収穫までに終わらせなくちゃ、今年のうちに北へ向かって旅立てない。やれるうちにやっておかないと。」

 

こうして次の朝、芝土の切り出し作業が始まりました。

ルブリン自身が青銅の斧で輪郭を切り出し、ダラや他の男たちは小高い牧草地を覆う、クローバーやタイムやアイブライトなどの小さく鮮やかな花が散りばめられた緑の草を剥いでいき、女たちはそれを大籠に積んでは、遥か下にある草で覆われた深いくぼ地へと運んで行きました。

 

来る日も来る日も、男たちは根堀り鍬と鹿角製の幅の広いつるはしで白亜を掘り起こし続けました。

土でくすんだ浅い層の白亜を取り除き、純白な白亜が現われる太ももほどの深さまで掘り下げるのです。

女たちは、取り除かれた白亜をいくつかの場所へと運び集めます。

さらに、真っ白な白亜を掘り出して脇に取りのけておき、集めておいたくすんだ白亜の山を全て埋め戻してから、その上に撒いて被せました。

 

まる一日かけてたどり着くほど離れた土地に住む者たちは、南の地平線の丘の斜面に奇妙な形の巨大な何かが作られているのを眺め、白亜の丘陵の民は何の魔法を行なっているのだろうと不思議がりました。

その夏の気候は穏やかで、作物を台無しにする強い風も吹かなければ雷雨もなかったので、丘陵の側面にある麦畑の大麦は丈高く育ち、麦の穂はずっしりと実りました。

そのうえ、はらんだ牝馬も丈夫な仔馬を産み落としたので、人々は馬の魔法のお陰だと、曾孫の代まで『白い馬の夏』のことを語り継いだのでした。

(4)

 

作業は終わりに近づき、実った麦の穂は刈入れの時を迎えました。

麦の最後の一列が刈り取られた日、ルブリン・デュは自分の仕事の最後の仕上げとして、鳥のような奇妙な形をした馬の頭に敷き詰められた、真っ白な白亜を平らに均(なら)しました。

 

翌朝、ルブリンの一族と舞い戻っていた古き民が麦を束ねる作業に駆り出されている間、ルブリンはあの見晴らしの木へと向かいました。

作業を始めた春先には紫に萌えていた雄大な魔女楡の枝々も今では、夏の終わりに色を深めた広い葉で幾重にも覆われています。

ルブリンは、谷の向こうを見渡して自分の作り上げた物を眺めるために、二本の枝を両脇に押し分けました。

 

そこには、彼が夢で見た白い牝馬がいました。

道のりの遥かなことを知っているが如く、緩やかな足取りで駆ける白い牝馬のしなる首と長くたなびく尾は、丘陵のなだらかな起伏に映えて、まるで世界の始まりからそこにあったかのように、そして世界の終わりの時までもずっとそうあり続けるように見えました。

ルブリンは、まるでハヤブサのような頭と、胴体から離れて大きく開いた二本の脚を持つ、牝馬の異様な姿を眺めました。

しかしその異様さこそが、彼女に愛らしくも軽やかな動きを与え、炎と月明かり、力と美の化身たらしめているのです。

遠くの枝から眺めながらルブリンは、夢の実現が間近であること、死にゆく者のつとめが完璧に成し遂げられつつあることを、神の啓示を受けたように悟ったのでした。

 

今やルブリンに残されたなすべきことはただ一つ。

 

自分が跨がるこの偉大な枝の生命力を感じることはもう二度とないのだと思いながら、ルブリンは友に別れを告げるかのように、魔女楡のざらざらとした木肌に手をのせました。

それから地上に降り立つと、波のように盛り上がる丘陵と、彼の一族がその強さを誇った丘砦の方に向き直り、その全てを見納めてから、用意が出来たことを告げるためにアトリベイツのクラドックのもとへと向かいました。

 

ルブリンは、馬小屋の前の庭で新しい戦車を検分している族長を見つけました。

馬小屋の軒下では、ツバメたちがさえずりながら、ゆすり蚊の群れの中へ矢のように低く飛び交っています。

 

「クラドック族長、あなたの前線の標(しるし)、白い馬が完成しました。行って確かめていただけませんか。」

 

くびきの横木をはめる生皮の綱の具合を確かめていたクラドックは、顔を上げると首を横に振りました。

 

「俺が夏のあいだ中ずっと、馬が出来上がっていく様子を見ていたことは、お前も良く知っているはずだ。いまさら確かめに行くまでもあるまい。」

 

「では仰って下さい。あれでよろしいですか?」

 

「初めの馬でも良かっただろうな。」クラドックは言いました。

 

「しかし、俺たちはともに馬の民だ。お前も俺も。」(この中庭でまさに同じ言葉を言った父の記憶がルブリンに甦りました。その時もツバメが矢のように低く飛んでいました。)

 

「良い牝馬は見ればわかる。あの馬は、馬の群れには多くの仔馬を、そして女たちには丈夫な息子を授けてくれそうだ。よし、あの馬で良いだろう。」

 

「それでは、これから我が民のところへ行き、出発の準備をするよう命じます。」

 

そう告げるルブリンに、

 

「これから四日間、ラマスの収穫祭が執り行われる。ラマスの火が冷えた時、馬を揃えて門を開き、お前の民を解き放とう。」

 

と族長のクラドックは言いました。


第12章 北への馬追い唄

(1)

 

夏の白い砂塵に煙る中を曵かれて来た馬たちが、丘砦の近くに囲われました。

色々な馬が混ざった小さな群れを眺めたルブリンは、生え抜きではないけれど役立たずというわけでもない、クラドックは公平に選んでくれた、と思いました。

種馬は濃い茶色のと赤狐色のが一頭ずつ自ら檻に入り、牝馬は仔馬を孕んだものも含めて20頭かそれ以上、道中の厄介物になりそうな縮れ毛の二歳馬に、ポニーの群れが5頭・・・・。

 

ラマスの前夜祭では、丘砦の西側の白亜の丘の峰高くにともされた一対の篝火の間を、選りすぐられた牛と馬の群が、翌年の豊饒を願う祈りとともに追われていきます。

静かに響くひずめの音と、それを追い立てる馬飼いたちの叫び声とともに、暗闇の中からその姿を現す牛や馬たち。

ルブリンは、ラマスの火に集められていた彼の民に混ざって、かつて幾度となく見てきたその光景を眺めていました。

たてがみをたなびかせた荒々しい目の種馬たちや、脚元に仔馬を従え脅えた様子の牝馬たちが、峰の頂上で暗闇から突然姿を現したかと思うと、めらめらと赤く燃える炎へと進んでゆき、また再び暗闇へと姿を消します。

ルブリンはふと、頭を振り上げたてがみや尾を翻して流れゆく群れの中に、闇から現れた白い牝馬が炎の明かりに乳色の背中を煌めかせ、そしてまた闇へと消えていくのを見たような気がしました。

それはまるで、生涯を通じて彼の一部であった白い夢の牝馬、そして今はラマスの火が微風にたなびく峰の下、槍のひと投げほどの場所に白亜から切り出されて彼を待っている白い牝馬の幻のようでした。

 

全ての馬の最後に、赤狐色の種馬と最良の牝馬3頭が、今年の豊饒を北へ運ぶことを願う祈りとともに火の間を通りました。

その後を牛が通り終え、火の勢いが衰えはじめると、若い戦士たちの何人かが女たちの手を取って薄れゆく火灯りのなかへと走り出て、丈夫な男子が授かれるよう祈ります。

ぼろぼろにやつれたイケーニの男たちの間から歩み出たダラは、テレリの手をつかむと一緒に走り出し、赤々と輝く燃えさしを二人して蹴散らしていきました。

テレリは、自由を目前にしてにわかに溢れ出した喜びのままに、まるで春先のタイシャクシギのような声を上げています。

他のイケー二もそれに続きました。

新しい牧での子宝と豊饒を願って。

 

ルブリンは彼等を見ていました。

 

炎は小さく低くなり、灰の中のあちらこちらで火の粉が花びらのように舞っています。

赤い炎の揺らめきで見えなくなっていた夜の空が、星の瞬きとともに戻ってきました。

旅の空に、狩りの空に、牧の空に瞬く星たち。

ルブリンはその夜が星空であったことがうれしかったのでした。

(2)

 

タゲリの鳴き声と共に朝がきました。

煙るように森の中に低くたれ込めていた霧が、太陽の光で小さくちぎれ、すじのように散っていきました。

丘の斜面の白い牝馬は、その見開いた目で朝の空をじっと見返しています。

丘砦の大手門は、イケー二の民のために開かれていました。

3人の馬追いはすでに騎乗しており、馬の小さな一団は檻から連れ出されています。

荷物と幼い子供たちは、旧式の戦(いくさ)用の荷車や小さくて頑強なポニーの背の荷かごに積まれています。

男も女も皆、包みや籠を抱えています。

老いぼれヤギを連れている者もいます。

男たちの何人かは、この数ヶ月のあいだ手にすることのなかった槍を抱えています。

女たちは、色が褪めたぼろのガウンを帯で腰高く締めて、旅装束としています。

けれども、そこには年寄りはいませんでした。

希望を失った老人たちにとって、囚われの一年はあまりに過酷なものだったのです。

もはや置き去りにされるか足手まといになるかしかないことを知り、その時を待たずに毒汁を飲んだ者さえありました。

 

竪琴弾きのシノックが謡った馬追いはこんなものじゃなかった、そうルブリン・デュは思いました。

白亜の丘陵に轟き渡る戦車の車輪の音、辺り一面を覆う馬の群、女や子供を乗せ、家財道具を運ぶ荷車を引く雄牛、追い立てられる肉牛の鳴き声。

でもきっと、今度の旅の方が勇壮なものなのです。

囚われの身となり骨の髄まで打ちのめされた、わずか一握りの戦士と女たちの、すり切れた希望だけを携えての旅立ち・・・・。

 

ポニーの荷かごの中の子供が、丸くまじめな眼差しでルブリンを見つめています。

やせた犬がルブリンの踵(かかと)をくんくん嗅いだかと思うと、主人を追って静かに駆けていきました。

いよいよ、みんな行ってしまうのです。

彼らは、開かれた大手門に立つルブリンのほうを見はしましたが、交わす言葉を探すことが出来ませんでした。

 

最後にテレリが、後ろで束ねた金色の髪から白い額にかかる解(ほつ)れ髪を手で梳き上げながら、彼のもとへとやって来ました。

彼女はもう少女ではありませんでした。

ルブリンの目に映った彼女の身体は、触れた者の手を切るほどに美しく引き締まり、その瞳はルブリンを見ていながら、すでに遥か彼方へと向けられているようです。

 

「無事に新しい牧へと辿り着けるように」

 

ルブリンは、テレリがかける言葉に困っているのを見て、そう言いました。

テレリはルブリンに少し近づきましたが、両手を後ろに組んで彼には全く触れません。

 

「たどり着けるわ」彼女の声は確信に満ちていました。

「そして、あれがあなたの業(わざ)だということも忘れない。荷車の中の子供にはもう、竪琴で謡う才を得ている者があるかもしれないし、これから生まれてくるのかもしれない。もしこれから生まれてくるのなら、それはダラと私の子であってほしいわ。どちらにせよ、北の牧についた私たち一族に竪琴弾きが再び現れ、北への馬追い唄を、ルブリン・デュを謳う唄を作る時がきっと来ることでしょう。」

 

彼女はまた少し体を動かしましたがすぐに後退り、ルブリンには触れることなく向こうへ行ってしまいました。

 

もう長いこと、ルブリンに触れる者も、彼と同じ皿で食べる者もありません。

皆がルブリンの影を踏まぬよう意識し始め、深い孤独に包まれた頃からずっと。

そしてもうすぐ、もう間もなく、皆が去ってしまうのです。

(3)

 

ダラは、全員がつつがなく出立できるよう、一行の殿(しんがり)として指揮を執っていました。

彼が別れの挨拶もなしに行ってしまうのも仕方がない・・・もし自分が彼の立場だとしてもそうするだろうから・・・そうルブリンが思っていると、一度はポニーに積んだ敷物の束を放り投げたダラが、門の中へと引き返して来て両腕をルブリンの肩に回しました。

哀しみに我を忘れ、タブーを犯すことなどお構いなしで。

 

ひと息継ぐほどの間、ルブリンは身を強張らせて、まるで門柱の若木のように棒立ちになりました。

そして、5歳の時からずっと心の友だった、兄弟以上の仲だったダラの肩に腕を回しました。

二人はしばしの間、互いをしっかりと抱き寄せ、相手のぼんのくぼに顔をうずめました。

 

「心の兄弟よ」ダラは言いました。

「林檎の木の国で俺のことを待っていてくれよ。明日のことかもしれないし、北の地で槍使いたちの長となり、馬に乗ることも剣を持つこともできぬほど老いぼれた後かもしれないが、俺が行くまで待っていてくれよ。そして俺のことをずっと忘れないでくれ、俺もお前を忘れないから。」

 

「忘れるものか。」ルブリンは言いました。

 

やがて二人は離れると、ダラはそばで控えていた男が曳くポニーの方へと向き直りました。

そして、その背に跨がると、片手を振り上げ出発を合図しました。

馭者に鞭を入れられた馬たちは前のめりとなり、2台の古い荷馬車の車輪が回りはじめます。

男も女もそれぞれの包みを抱え上げ、馬追いは馬を追い始めます。

どこかで子どもが、生まれたばかりの子羊のようなか細い声で泣き始めました。

 

遠ざかる一行を見送るために、ルブリンは北側の塁壁の上にあがりました。

彼は、糸くずの束のような男や女たち、今日一日も持ちそうにない2台の古い戦(いくさ)用荷馬車、みすぼらしい馬の群とそれを追う馬追いたちが、丘陵の急峻な谷や崎の間をしなる鞭のように曲がりくねる道を見えかくれしながら谷底まで進み、古(いにしえ)の馬の民の道を横切って、北へと続く道へと踏み出すまで見ていました。

彼らはどこかで後ろを振り向き、丘の斜面の白い牝馬を見るはずです。

しかし、それからはもう二度と振り返らずに、まっすぐ北だけを見て、山々と海に囲まれた遥かな牧への夢を追っていくのです。

 

一行の数はとても少なく、一番幼い子供を入れても200名にも足りません。

ルブリンは、旅の途中で何人生まれて何人が死ぬのだろう、と思いました。

どれほどの時をかければ、目的の地に辿り着けるのだろう。

一年?

二年?

それとも、半生をかけることになるのだろうか?

本当に辿り着けるのかどうかすら、ルブリンにはわかりません。

 

一行の後方で砂塵が白く巻上がり、彼らの足跡は林の中へと伸びていきます。

 

ルブリンは砂煙が晴れるまで見送っていました。


最終章 太陽の馬 月の馬

 

正午前になると人々が集まってきました。

白亜の丘陵の新たな主たちが丘砦からぞろぞろと出て来て、丘の斜面は青や茶色、サフラン色やケシの赤といった色とりどりの服でごった返しています。

真昼ではありますが、北向きの急な斜面には人々や灌木、小山やくぼ地の影が、夕暮れ時のように長く薄く伸びています。

しかし、長く暑い夏のせいで黄色く色あせた芝地から立ち上る、陽射しに蒸された草や低地に咲く香しい小花の混ざった匂いは、まぎれもなく真昼の匂いなのでした。

白亜を彫った牝馬を囲むように設けられた空き地に進み出たルブリンは、人々の群れが漂わせる強烈なジャコウ臭さにも勝る、その匂いを嗅ぎました。

そよ風が、白亜の丘の背の向こうから、谷間の森のひんやりとした香りを運んできました。

その香りを嗅ぎながらルブリンは、大空高く舞うチョウゲンボウの鋭い鳴き声を聞きました。

耳障りなほど鮮やかでとげとげしい鳴き声が紛れる音など一切ないほど、群集は静まり返っています。

ぼんやりと青い陽炎が、低地の村々を覆っています。

そのすべてが、そこで暮らして来たルブリンにとっては当たり前のことでしたが、これほど鮮明に、痛いほどに感じたことはありませんでした。

それはまるで、風や、陽射しに温む芝生や、チョウゲンボウの鳴き声をルブリンから隔てていた皮膚が一枚むけたかのようでした。

 

ルブリンは裸でした。

彼の身体には自分たちのものとは異なる赤と黄土色の文様が描かれ、額と目の回りには祭司によって黒苺の汁で線が引かれています。

二人の祭司に挟まれて歩くルブリンを、牝馬の前脚の間の芝地で二人の男が待っています。

一人はクラドック。

テンの尾っぽの房飾りのついた、血のように赤い儀式用の羊毛のマントを身にまとっています。

もう一人は祭司長。

他のアトリベイツの祭司と同じように、あまりに豊かな神への貢ぎ物のおかげで、どんぐりで餌付けされた豚のように太ったその身体を、祭司だけが身につけることを許される純白の布に包(くる)み、ナラとイチイの冠を被り、黒光りする青緑色の石剣を手にしています。

 

ルブリンにはその石剣が、風や、陽射しに温む芝生や、チョウゲンボウの鳴き声と同じように、自分の一部分のように思えました。

けれども、見知らぬ祭司の手によって死にたくはありません。

それは取引きにはなかったことです。

 

ルブリンはクラドックを観ました。

 

「これは、あなたと僕の間のことがらだ。」

 

「確かに、お前と俺との間のことがらだ」クラドックは応じました。

「我が民の間では、神の儀式を祭司が執り行わぬことなどあり得ぬ。しかし、これは族長が扱うべきことがらだな、兄弟よ。」

 

そう言って彼が脇に立つ祭司長に手を差し出すと、祭司長は異様な形をした黒光りする石剣をその手のひらに乗せました。

 

ルブリンとクラドックは、共に並んで白亜もあらわな牝馬の胸へと進みます。

集まった祭司たちの間から流れ始めた低くリズミカルなつぶやきは、唱和する群衆の声とともに徐々に大きくなり、やがて祈祷と凱歌がひとつになりました。

弧を描く牝馬の首は王の道のようであり、そこを進むルブリンはまるで戴冠式へと向かっているかのようです。

不思議なハヤブサもどきの頭まで来たルブリンには、その堂々と見開いた目が、太陽と月と天を巡る星と世界を吹き渡る風をしっかりと仰ぎ見ているように思えました。

 

「円く残した芝生、ただそれだけのことさ」

 

ルブリンの中で、自分自身の愚かさを静かに笑う声が聞こえます。

しかし、彼のもっと奥深くにあり、そこが大地と空とがつながる、不思議な強い力の込められた場所であることを知る別の何かは、こう言うのです。

 

「糸沙参(いとしゃじん)が生えている。こんなに素晴らしいことはない。」

 

そしてルブリンはその身を横たえました。

 

「覚悟は出来ているか?」彼の横に膝をついてクラドックが尋ねました。

 

その風焼けした顔の細められた青い瞳に、ブルリンは微笑み返しました。

 

「出来ている。」

 

彼の上には風にさざ波立つ高い空が広がり、大地の下からは暖かでどっしりとした力を感じます。

黄土色の草に混じって生える糸沙参(いとしゃじん)の、糸のように細い茎が風に揺れています。

遥かな時と場所の彼方から、北の山々と海に挟まれた牧にたどり着いたルブリンの民の、精魂尽き果てた末の喜びが伝わってきます。

 

「兄弟よ、自由になれ」クラドックは言いました。

 

振り下ろされた剣が、陽の光に煌めくのが見えました。

 

 

~完~


暢子のあとがき

英国の歴史小説家ローズマリー・サトクリフの”Sun Horse, Moon Horse”を訳し始めたのは今から8年前。

途中、色々なことが重なって翻訳作業が滞り、感想メールを下さった方とも不通になってしまってからは、早く進めなくちゃと気持ちばかりが先走っていましたが、この6月からようやく再開。

翻訳を進めるうちに、それまで訳し終わっていた箇所にも手直ししたい部分が出てきたりして、全体を見渡しながらの作業は素人の私にとっては相当やりがいのあるものになりました。(笑)

 

サトクリフならではの世界を再現する試みは、とても楽しいものでした。

かなり勝ち気で視野の狭い女の子として描かれているルブリンの妹テレリにサトクリフの女性観を改めて感じたり、ダラとの友情に訳しながらなんども涙を流したり・・・。

ところで、私が翻訳する上で強く意識したのは、サトクリフが描き出した物語にできるだけ忠実に訳すことでした。

例えば、芝地に浮き出た白亜の白馬の鷹もどきの頭は、実物は白く輪郭が彫られた芝地に白亜が円く削られた目をしていますが、サトクリフは白亜の頭部に円い芝地の目があるように描いています。

そして、その「大地と空とがつながる、不思議な強い力の込められた場所」である「芝地の目」から、そのか細い茎をのばしている "harebell"。

これを、灰島かりさんは『ケルトの白馬』のなかで、白くくぼんだ目(←実物の白馬の目と同じ)の周りの枯れた芝の中に生えるブルーベルと訳されていますが、ブルーベルは春に勢いのある青い花を鈴なりに咲かせる種類だそう。

初秋にその命を白馬に注がんとするルブリンはきっと、もうじきその先に薄い青色のベル状の小花が咲くだろうと思っていたはずなので、私は秋に咲く糸沙参(いとしゃじん)と訳しました。

 

そもそも、物語の白い牝馬は、東から西へと駆けているように描かれたことになっていますが、実際のアフィントンの白馬は北から南の方角へと向かっています。

( ↑ クリックするとGoogle Mapで現地へ飛べます♪)

サトクリフはサトクリフに見えるように描いた、ということなのでしょう。

ルブリンがそうしたように。

 

そうそう、世界史では "Atrebates"=アトレバテスと表記されるケルトの一族について、私はアトリベイツと表記しました。

「レバテス」の部分がローマ側からみた響きに聞こえたことと、サトクリフがこの物語の中で "Attribates" と表記していることから、そのようにしてみました。

実際にサトクリフがどのように発音したかはわかりませんが・・・。

 

また機会を作って、サトクリフのお話を私家版翻訳してみたいと思っている懲りない私、です。

 

 

2009年9月24日