それぞれの行く末  【第41話『観柳斎、転落』の感想】演出:小林大児

《堕ちていく観柳斎》

背伸びをし、周りを見下し、人を踏みつけにしてでも手に入れた自分の居場所。

観柳斎にしてみれば、それは己に正直に生きてきた賜物であり、決して悪意や策略によるものではない。だからこそ周囲との軋轢があればあるほど意地を張り、そのせいで居場所を失って行く。

己の性格の卑しさを認め、正す強さを持たなかった観柳斎。その卑しさのために全てを失ったとき、最後に残った意地が彼を裏切りの誘惑から救ったのかもしれません。

しかし、土方の言うように、自分が蒔いた種はいつかは刈り取らねばならぬもの。そして、自分自身で刈り取ることが出来なかったところがまた、観柳斎らしい最期でした。

 

《殿(しんがり)を行く近藤》

終局を迎えようとする幕府の直参となった隊士たち。

これを機に、己を殺して土方の采配に預けていた新選組を、自らの手元にはっきりと引き戻した局長・近藤ですが、縛れば縛るほど綻びる隊の結束を真に強固なものとすることが出来るのでしょうか?

「ちょっと待ってください。何言ってるんですか、法度を破ったんですよ。今まで死んでった奴らはどうなるんですか。山南さんはっ? 河合さんはっ?」という沖田の台詞を待つまでもなく、法度は、人の道に背いていない多くの者たちの死を重ねることで、新選組のアイデンティティとなってきました。それが今壊されようとしている。それも、人の道に背いた者の命が救われるというかたちで・・・。この不条理を多くの隊士が受け入れられないとしても不思議ではありません。

そして、土方。彼はいつまで、己を殺して近藤采配に従い続けることができるのでしょうか?

 

《先駆ける龍馬》

「それにしてもあん男、段々と目障りになってきたなぁ。」

新選組!とはちょっと離れるのかもしれませんが、史実では薮の中の龍馬暗殺の真犯人、実は薩摩だと思っている私です。

というのも、島津氏は我こそ正統な武家筆頭の源氏長者を自認していたようですし、300年前に源氏長者を買った徳川を打倒することは悲願だったはず。つまり、徳川を倒して島津幕府を打ち建てたかったんじゃないでしょうか。

となれば龍馬が志向する、徳川も含む雄藩共和制のような体制は論外で、大政奉還の後こそ が正念場だった、とも考えられます。今日の西郷の台詞を聞いていて、そんなふうにも辻褄が合うなぁと思ってしまいました。

 

ところで、観柳斎や龍馬そっちのけでお孝探しに入れ込んでいた永倉や左之助たち。

新選組隊士としての彼らの行く末やいかに!?(笑)

 

 

それにしても今回のお話は、何本かの同じ色の糸が撚り合わさり、そして解(ほぐ)されていくという、三谷脚本の真骨頂を見せてくれたような構成でした♪

それだけに目についてしまうのが、このお話の「因果の糸車」の最初のひと回しになる近藤と土方の抱擁シーン。茨木たち会津公への直訴組の演技と相まって、大袈裟すぎて消化不良の感がありました。

抱き合って喜ぶという演出自体は、彼らのなかにある多摩の百姓気質をあらわすためには必要なものだったと思います。そして、彼らが京に留まった大きな理由の一つが「武士になる」「京で一番になる」という私的な目標の実現にあったことを思い起こさせ、そんな彼らの意識と、主君を捨ててまで尊皇攘夷の志のために入隊した武士たちの意識のズレが、観柳斎のつけ入る隙となる・・・という、緻密な構成を成立させるためにも不可欠な演出だったはず。そう考えるとなおさら、全体の流れのなかでそこだけ浮いた印象となったあのシーンはちょっと残念★



号外  【10月23日 土曜スタジオパークの感想】

三谷さんをゲストに迎え、ドラマの終局に向かって煽り満載だった10月23日の土曜スタジオパーク♪

 

10月10日の収録最終日、スタジオでのセレモニー(?)で香取@近藤と山本@土方が抱き合っているところが映されていました。

お二人とも、まさに感無量といった様子で互いの背中に腕を回していましたが、あの抱擁が「観柳斎、転落」冒頭で観られたらよかったのに★

 

榎本武揚に草なぎ剛クンですか! イイですね♪

五稜郭に蝦夷共和国を樹立し、旧幕臣として官軍に最後まで抵抗した男。そして、その人柄故に助命され、新政府の要職に就いた男。

榎本@草なぎにあの土方がどう絡むのか、楽しみです☆

 

土スタ・レギュラーのビビる大木が菜葉隊隊士・小松役に抜擢され、「古くさい演技」を披露したとか。(笑)

菜葉隊というのが実在したというのは「へぇ~」ですが、その配役の理由が元葉っぱ隊だからというのは「ガッテン!」。

三谷さん、そういうことならウチにも一言声を掛けて下さればよかったのに~。何を隠そう、我が家の次男坊も葉っぱ隊だったんですよ!(笑)

幼稚園の謝恩会で葉っぱ一枚、楽しく踊りました♪

そのなつかしい顛末はこちらで・・・。

 

新選組!ファンの小さなお子さんの間に、結構浸透している様子のテーマ曲。

小学校で放送委員をやっているウチの長男も、お昼の放送で何度か流してます。お友達の男の子は、「いとしき友は何処に~♪」と口ずさみながら職員室掃除に向かうそうです。


託された男の死  【第42話『龍馬、暗殺』の感想】演出:清水一彦

徳川の政治的な力を完全に奪い、王政復古の世を主導しようと画策する薩摩と岩倉卿。

日本が真っ二つに割れることを防ぐため、一大勢力としての徳川家存続に奔走する龍馬。

徳川にとっての坂本の真価を見抜き、近藤に彼の護衛を命ずる若年寄格・永井。

大局を見ず、討幕の首謀者・坂本を斬る決心する佐々木。

山崎から龍馬の居場所を知らされながら、周平と鍬次郎の遺恨試合を見届けることを優先する近藤。

佐々木の動きを捨助から知らされた近藤は、永倉と左之助を近江屋に駆け付けさせるも時すでに遅く・・・。

 

ウ~ン、うまいっ! 龍馬暗殺の主要説を絶妙に組み合わせたところも流石ですが、この物語の主人公である近藤の人物と宿命を、龍馬の死を通して巧く浮かび上がらせて見せるところもスゴイ!

 

源三郎の、おそらくは厳しくも暖かな指導のなかで自律心を育んだ周平が、沖田の命を削る特訓で鍬次郎を討ち負かした遺恨試合。

このエピソードは、人を信ることよりも操り縛ることで組織をまとめようとして土方が生んだ綻びが、信じることで人を動かす男・近藤によって繕われ始めたことをよく象徴しています。それと同時に、近藤が大局より身内に意識が向く男であることを改めて示すものでもあったのでしょう。

 

「人は信じることから始めんといかん。国を動かすにしてもそうぜよ。まずは相手を信じる、それからじゃき。」

一度は自分を売った捨助を見逃すとき、心配する平助を諭す龍馬。

この龍馬の言葉に、かつての山南の言葉を思い出しました。

「人を信じない人間に、命は預けられない。私はどこまでも近藤さんについていきます。」

そう言って清河と袂を分った山南でしたが、近藤の主体性が低下し土方の統制が強まる新選組を脱走。

このとき、彼が自らの志を託したのが龍馬でした。そして、その龍馬の危機を救うことが出来たのは、主体性を取り戻した近藤のはずでした。

しかし、日本の綻びを繕おうとしているかつての友の命を護ることを、身内の綻びを繕うことの後に回してしまったことで、徳川家の殿(しんがり)としての大事な役目をひとつ仕損じてしまった近藤。それでも彼は、山南や龍馬の志を、彼なりの形で受け継いでいくはず。

池田屋事件で長州の謀略を未然に防いで京の人々を戦火から救ったように、捨助の失火から起きた京の大火事のなか人々を炎から守ったように、これから始まる戦乱のなかで「最後の武士」としてどんな活躍を見せるのか、ここから先の怒濤の展開がますます楽しみです♪

 

 

今回の土方語録

「気になるのは、今後我らの手当がどうなるか、ってことだ。」

さすがは土方、目のつけどころが違う!

 

今回の捨助語録

「あぶねぇ、あぶねぇ。ハァ、貰っといてよかったぁ~。」

金でも銀でもなく、鉄の捨助! なんだかウレシイ~♪(笑)



油小路~カーテンの向こう側  【第43話『決戦、油小路』の感想】演出:伊勢田雅也

近藤との対話によって心の曇りが晴れた男を、次々と闇討ちにする鉄砲玉、鍬次郎。

観柳斎の時には彼一人の死で終わりましたが、今度は伊東を翻意させた近藤の命がけの対話を無にしただけでなく、近藤が最も恐れていた御陵衛士と新選組の内ゲバを招いてしまいました。普段から周平をいびっていたこととも合わせて、彼ほど近藤の思いを踏みにじる男はいないのではないか、そう思わせる役まわりの彼ですが・・・。

近藤と島田が油小路に駆け付けたとき、既にそこにいた土方。

彼は「若い奴らを責めるな。奴らはお前のためと思ってやったんだ。」そう言って鍬次郎たちを庇います。「お前のため」というのは、彼が今まで下してきた非情な判断と行動を正当化するときに、決まって使ってきた言葉です。

そして、「ここからが大事だ。御陵衛士は黙っちゃいねぇだろう。」「悪いが、この先は俺に任せてもらう。良い機会だ。どうせ奴らとは遅かれ早かれ、決着を着けなくちゃならなかった。」 まるで、今回の展開を待ち構えていたかのような張り切り様を見せる土方と、そんな彼をじっと見つめる島田と近藤。

先だって脱走した浅野曰く、幹部と同じ多摩出身の縁故で入隊した鍬次郎。今回の彼の凶行は、果たして彼の独断だったのか、それとも・・・。

龍馬を暗殺した佐々木の背中を、薩摩が陰から押していたことを思い出させる三谷脚本、絶妙です。

その真偽はともかく、油小路は近藤と土方それぞれが進む道筋を暗示する、そんな場所となったように思えました。

 

油小路の決闘のなか、高台寺党の一員としてかつての仲間と斬り結ぶ平助。

なぜ近藤の元を離れ伊東と行動を共にしたのか。永倉たちが逃そうとするにも関わらず、自分から闘いのまっただなかへと戻っていったのはなぜか。

今回の勘太郎さんの演技に、素直に納得できる答えを見つけたように思います。

平助は伊東が好きだったんですね。尊敬とか、憧れとか、色々な言葉がありますが、伊東のクールで知的なキャラとしっくりくるものがあって、いつかはああなりたいと思っていたのでしょうね。

自分が相手に対して抱いている気持ちを、相手からも自分に対して向けて欲しい。本質的な相性みたいなものから生まれるそんな感情と、近藤に対する恩義や尊敬の念や新選組隊士たちへの友情との間の葛藤をがむしゃらに振り切った平助。彼は自分が真に主(あるじ)と仰ぐ者に殉じた、そう素直に受けとめることができた名演技でした。

 

それにしても、今回のお話は今までのエピソードのなかで一番、本物の新選組っぽいと思ったのはワタシだけでしょうか。

これまでも、過酷な運命に翻弄され、不条理の渦に巻き込まれる登場人物がきっちり描かれてきたことは確かなのですが、それでもどこか「そうは言っても皆思いは一つ」的な雰囲気が漂っていたように感じていた「新選組!」。

1人1人の人物の思いがこれほど激しくぶつかったお話は、鴨の暗殺の回も含めてなかったように思います。

平素は穏やかな雰囲気の谷原@伊東と勘太郎@平助の鬼気迫る演技が素晴らしかった!

香取@近藤も本物っぽく見えましたし、オダギリ@斎藤の真剣な表情も今までで一番だったかも・・・。

そしてもちろん、山本@土方も!

 



ホントにおみつさんに似てますね、お孝  【第44話『局長襲撃』の感想】演出:土井祥平

王政復古を境にした世情の大転換と、その中にあっても変わらない近藤と新選組を描いた今回のお話。

物語の終局に向けて、社会情勢の変化を描く必要があり、その多くを城内での政治談話で表現せざるを得ないという事情(?)はわかるのですが・・・。

あれじゃあ慶喜、ただの思い込みの激しい気まぐれナルシストじゃないですかぁ。

容保公のように、正々堂々の真っ向勝負こそ良しとする、武士道とは我にありといったタイプから見れば、得体の知れなさをまき散らす慶喜公の政治的な動きは好ましくは映らないでしょうし、その視点からの人物像で慶喜公を描いていくことも悪くはないと思います。近藤は容保公の半身として描いてきたということを考えれば、その必然性が増すことはあっても減ることはないでしょう。

でも、慶喜公のあの態度の裏にある徳川政治総裁職擁立工作が描かれないと、龍馬の死の意味が薄まってしまうと思うのです。

ましてや、自分を仇と狙うお龍に、龍馬がこの日本にとってどんな存在だったのかを説く近藤、と言うエピソードを挿入しているわけですから・・・。

 

その一方で、おそらくは土方が大盤振舞いしたお金を使って買ったのであろう人参を、病床の総司に真っ先に届けた斎藤のエピソードが光ってましたね。

総司に「決して驕らず、無駄口はたたかず、仕事はきっちりこなす」と評された斎藤。それは言葉をかえれば、自分を出さずに人の指図に従う半生だったとも言えるかもしれません。

しかし、左之助の祝言に手慰みに彫った木像を贈ったり、利用法も分からぬまま総司に人参を渡したりと、不器用な精一杯の自己表現をしてみせる最近の斎藤を見ていると、彼にはこれから「自分の人生」を長く過ごしてほしい、決して死に急がないでほしい、そう思わずにはいられません。

 

油小路の折、

「悪いが、この先は俺に任せてもらう。良い機会だ。どうせ奴らとは遅かれ早かれ、決着を着けなくちゃならなかった。」

って、言ってた土方でしたが、決着つけ損ねたせいで撃たれてしまった勝っちゃん。そして、流山でも・・・。


お伽話のようなおはなしでした  【第45話『源さん、死す』の感想】演出:清水一彦

雨あられの如く銃撃を浴びせかけてくる薩摩の陣地に突撃をかけ、ほとんど無傷で帰ってくる新選組の面々。永倉に至っては旗指物まで盗ってきちゃったし。一体、薩摩の陣地でどんな戦いが繰り広げられたんでしょうか。

誠の旗が高く掲げられ、薩摩の旗は永倉に奪われ、錦の御旗は慌てて逃げる薩長兵に踏みにじられる。

演出意図は分かるといえば分かるんですが、なぜだか今ひとつピンとこないのはなぜでしょう。

今回描かれた鳥羽・伏見あるいは大坂の戦いは、新選組!のなかで描かれた初めての本格的野戦だったと思うのですが、出来れば屋外ロケしてほしかったと思うのは私だけでしょうか。勇の天然理心流宗家四代目襲名披露のために行われた野試合が懐かしい・・・。

 

”近藤周平”を仁王立ちに守った源さん。

周平を守るために銃弾の前に飛び出した彼には、まさに弾が止まって見えたのでしょう。

普段は緊迫感のかけらも感じさせない彼だからこそ、ああいう描写は効果的だったと思います。(あれが斉藤や土方だったら、嫌みなだけでしょう。)

死の直後に近藤の前に現れ、「死んだ人間が泣いてどうする」とたしなめられて舌を出すところも”いかにも”。

源さんは新選組の六番組長である前に、近藤家の従者であり、勇のお目付役だったんですね。

 

死んだ源さんが局長の前に現れるシーンを観ながら、この6月に亡くなったご近所の初老のご主人のことを思い出しました。

お通夜の報を受ける前日の午前中に、ワタシ見たんです。近所の散歩道でいつものように黄色いジャンパーを着たご主人が向こうから歩いてくるのを。

「あら、お久しぶりにお見受けするな。」と思いながら、なぜか声をかけそびれたワタシ。

実は、一月(ひとつき)前から入院されてそこで亡くなられた、ということを奥様からお聞きした時は本当にびっくりしました。

あの時すれ違い様に拝見したご主人のお顔、まっすぐ前を向いたあの雰囲気は、今思えばもうこの世のものではなかったのかもしれません。


お孝も東へ?  【第46話『東へ』の感想】演出:清水一彦

さぞやおつねは驚いたことでしょう。「あんなに約束したのに~★」(笑)

 

それにしてもどうしようもないキャラになっちゃってますね、慶喜公。

大坂で奮戦する旧幕臣を見捨てて大坂を脱し、江戸城で迎えた勝からはネチネチと厭味を言われて返す言葉もない。

おまけに今回のお話では、勝海舟も慶喜公を上回る大言放言キャラとして描かれてました。

「薩摩の誘いに乗って、ひとたび戦が始まったからには、もう後は勝つしかない。そのただ一つの道が、上様自らがご出陣をなされ采配を振るわれることでござった。にもかかわらず、上様は全てを捨てて、幾万の家来を見殺しにして、逃げてこられた。」

「上様のお陰を持ちまして、味方は総崩れとなりました。敵は、勢いづいて江戸へ進軍を続けております。既にもう我らの命運は尽きております。」

と慶喜公を糾弾した勝。

そうかと思えば、別の折には「あきらめるのは早いのではないか。今からでもまだ勝てるのでは。」という慶喜公に対して、

「我が幕府海軍を使えば、勝てないことはありません。まずは、駿河でわざと負け、清見が関に敵をおびき寄せます。そこで待ち伏せをしていた我が艦隊が一気に攻撃を仕掛けます。さらに我が艦隊を大坂へと進め、西国とのつながりを断ってしまえば、敵は逃げ道を失い総崩れになるは必定。」

と勝利の絵図を畳に描いて見せる。「ならば、なぜそうせん。」と問う慶喜公に対して、したり顔で

「勝とうと思えば勝てる。その上での恭順にございます。それゆえに値打ちがあるのでございます。ご聡明なる上様ならば、この理屈お分かりかと存じます。」

と説く勝。

こうも矛盾する論をヘラヘラ捲し立てるキャラとして描くのであれば、慶喜公にも

「その方に言われるまでもなく、それこそまさに、大坂撤退を決断した余の理屈じゃ。それをその方、先だってはネチネチと咎めたではないかっ!」

って反論させて、大喧嘩になった方がお話の流れとしては筋が通るってもんじゃないでしょうか?

 

新選組という存在を大胆に解釈し直し、史実の一つ一つを新たな視点で捉え直してきた新選組!。

その分、彼等を取り巻く政局の描き込みが甘くなるのは仕方がなかったとしても、とにかく薩摩は陰険、徳川は無責任ってしちゃうのはちょっと・・・。

なんだか、近藤@新選組!の最期に向けて、安易に辻褄を合わせているように思えてしまうのは私だけでしょうか。

せっかくここまで描いてきたのですから、勝にしても慶喜公にしても西郷・大久保コンビにしても、その発想と行動のバックボーンが伺われるようなエピソードを練り込んで欲しいと期待するのは欲張りなのかなぁ。

 

沖田とひでの別れのシーンにもちょっと不満。

沖田を思うからこそ沖田への想いを封じ込め、彼と逢わずに今日まで過ごしてきたはずのひで。そんな彼女が、自分で歩くこともかなわず大八車で引かれていく沖田の姿を目の当たりにして、あの程度の表情で見送れるのでしょうか。ひでを見やる沖田の表情がよかっただけに、ひでの演出がアンバランスに思えて残念★ (役者さんが好きな分、なおさら)

人込みの中からは隊士一人一人の様子を確認することができず、隊列全体に精いっぱいの声をかけるひでと、その声を耳にしてひでの姿を探したけれど見つけられない沖田・・・そんな別れを見たかった。


歴史博物公園、ってニワトリだけ!?(泣)  【第47話『再会』の感想】演出:清水一彦

江戸が戦火に焼かれることを防ぐため、城中の武闘派から軍神の如く目される近藤を体よく甲府に遠ざけた勝。

新選組!のなかでの近藤は、京での薩長浪士掃討にあたっても常に苦悩し、事ここに至るまでは佐々木のような主戦派とは一線を画す穏健派として描かれてきました。しかし勝は、そんな近藤の人となりの本質は知る由もなく、お琴の「聞いてるわよ。あんたら新選組が、京で何をしてきたか。一体、何人の浪士を殺したの。おまけに、仲間同士の殺しあい。」というイメージで近藤に対したのでしょう。

勝@新選組!は舌先三寸の煙巻きキャラですから、「武闘派」近藤は適当におだてて厄介払い、っていうのも自然な展開。そして、直接対峙した時に見た近藤の目に、彼の本意を感じ取りながらも、結局は真正面から本音をぶつけあうことが出来ないのも勝@新選組!ならではでした。

こんな勝が、西郷とどんな談判をして無血開城を勝ち取るのか、とても興味深いですね。

 

いきなり洋装で登場した土方、「刀の時代はもう終わった。俺は姿形から入るんだ。」とキッパリ。

甲陽鎮撫隊の編成発表の時、「あんた、本当にこういうの好きだねぇ。」と左之助にバッサリ。

土方のそんな性格が作り上げた新選組という組織が、いよいよその本質ゆえに内部崩壊の危機に直面!

でも、永倉と左之助の離反はちょっと唐突の感が否めません。甲府以降の新選組のとるべき進路についての意見の相違がきっかけですが、主因は統制的な新選組の体質それ自体への積年の不満だったことは、彼の決別の言葉を聞くまでもありません。しかし、ここ数話の永倉には、そんな不満が募っている様子は見えませんでしたし、決別につながる予兆のようなシーンも置かれていなかったように思います。

左之助にしてもそう。茂の出産を間近に控えたおまさを京に残してまで新選組から脱することなくここまで来た彼が、今になってなぜ?

全部ひっくるめて近藤に感謝してるなら、なぜ今?  「おまさのため、茂のため、ここで死ぬわけにはいかねぇんだよ。」っていってくれた方が分かりやすかったのでは?

永倉の口利きで入隊した島田が残ったというのも釈然としないですね。その一方、斎藤が誠の旗を自分の意志でしっかりと支える姿は、これまでの彼の描写の積み重ねから、素直に納得のいくものでした。

三谷脚本なら当然期待できたはずの、それぞれの人物についての「布石」が十分に置かれずに二人の離反に至ってしまったのはなんとも残念。

やっぱり、描くべき人数が多すぎるのかなぁ・・・。

 

今回のお話の中のお気に入り。

その1

おみつさんが総司に向けて言った台詞

「あなたは悪いけどまだまだ死にません。しわしわになってみんなにくそ爺って言われるまで生き続けるの。沖田さんとこの総司さんは若い頃はいい男だったのにね、あのとき死んでればね、ってそう言われるまで生き続けるの。」

おみつさん、私のなかの勝海舟のイメージです。

 

その2

多摩の人々による歓迎の宴の席で、彦五郎に促されて立ち上がり音頭をとる近藤の、どこか押さえた笑顔。

鬼の局長と多摩の百姓の二つの顔が綯い交ぜとなった表情がとても印象的でした。


伏して初めて人の命の重みというものを学んだ天才も、未だ蟻の命の重さを知らず  【第48話『流山』の感想】演出:吉川邦夫

 

「江戸の町はあんたにやるから、明日の総攻めはやめろ。」

西郷に対してそう申し入れる勝と、それをあっさり受け入れた西郷。

西郷は、江戸市中に伏兵が配されるのでは、という危惧を抱かなかったのでしょうか。

勝は、官軍が市中に火を放つのでは、という疑念を抱かなかったのでしょうか。

あれほど敵対していた薩摩と徳川の指揮官同士が、どうして相手を信頼できたのか。

対長州で盟友関係にあったころ、二人は肝胆相照らす仲となるような、描かれざる事件があったから?

徳川方の主戦派のシンボルである新選組が甲州勝沼で惨敗したことが、徳川側の抗戦派の戦意を萎えさせ、官軍側に情勢を楽観させる決定的な材料となったから?

いずれにせよ、かつての近藤と伊東の命がけの対談のような緊迫感のかけらもない談合で、江戸の町は戦火から救われました。

 

前回、最後の一兵となっても甲府城を死守すると大見えを切り、そのためには自分に従わないものは断罪すると言い放った近藤。

結局は自らの言葉を裏切り、甲府城を放棄して江戸郊外へと逃げ戻った彼の中には、勝沼で失った永倉や左之助との絆について、どんな思いが巡っていたのでしょう?

落ち武者の悲壮感のかけらもない居ずまいで、のどかに釣り糸を垂れながら「新しい新選組を作る」という土方の言葉を半ば呆れ、半ば嬉しげに受け入れる彼の表情からは、その辺りの心情は読み取れませんでした。どちらかというと、これまでの新選組局長として背負った重責を全ておろし、浪士隊参加のときの純な意気込みが蘇っていたような気さえします。それはそれでわかるのですが、ちょっと違和感★

 

そして、新選組の再起を図るべく流山に入り、そして官軍の探索の網にかかってしまう近藤。

そんな彼が官軍の陣に出頭した理由が、流山の町を戦渦に巻き込みたくなかったからというものではなかった、という解釈は意外であると同時に、妙に納得できるものでした。

薩摩の侍・有馬を信頼して、隊の命運を託そうとする近藤。その決意をまたも頭から否定し、新生新選組の延命のため、隊士たちの生きる拠り所となるため、正体を偽り通してこいと言う土方。

江戸城の開城が決し、一気に維新に向けて動き出した世情のなかにあって、官軍への抵抗を続けることで市井の人々が被る災厄を除くために自ら身を引く、というような大局的な立場に立てる男ではなかったんですよね、近藤@新選組!は。

武士としての潔さを求めながら、結局は常に土方の描く絵図に添って動く男、近藤。

そんな近藤にとって、官軍の陣で加納と対面したことは、実は大きな救いだったように思います。主の仇とはいえ、窮地に立つかつての同志を目の前に、自分の誠のあり方を問われ逡巡する加納。この瞬間、加納と近藤の立場は見事に逆転し、自ら正体を明かすことで加納の誠をまもり、そして自分の誠をまもることができた近藤。その表情には、久しく見られなかった心からの安堵が現れていたように思えました。

そして、穏やかな笑みをたたえて加納を見やる近藤の姿に思い出されたのは、かつて勇がヒュースケンに教えた言葉。

「井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の高さを知る。」

 


「人は変わらないと駄目なんだ。」

そう言いながらも、多摩時代と変わらず通りすがりの娘に色目を使う土方。

有馬による光明院の陣地検分のさなか、呼ばれもしないのに現れて、その場の隊士たちを凍りつかせた捨助に銃口を向けるところも相変わらず。足手まといになる者たちを尽(ことごと)く排除してきた彼のこと、必要とあればためらわずに引き金を引いたはず、という演出とみました。

しかし土方、どのタイミングで引き金を引くつもりだったのでしょうか。どんなタイミングにせよ、あの状況で発砲していたら有馬も黙って引き下がれなくなっちゃいますよね。だから、土方には発砲の意志はなく、捨助を威嚇して黙らせるための行動だった、との解釈の方が自然といえば自然。

でも、あれほど緊迫した状況で、捨助が気づかなければそれっきり、なんていう半端な対応をとる男ではないはずですし、狙い定めて撃鉄引き上げてたし・・・。

「ハラハラした? ねぇ、ハラハラした?」っていう、三谷さんの狙いがちょっと鼻についちゃったのは私だけ?

 

さて次回はいよいよ最終回。

官軍に捉えられ、斬首の刑を待つ近藤。

自分の人生の拠り所であり、自分の野心実現のための旗印であった友を失おうとするそのとき、果たして土方は?

そして、純粋な憧れであると同時に、同じ世界に住むことを拒まれ続けた片思いの相手が死地に赴くとき、果たして捨助は?

二人の友は、それぞれどんな行動をとるのでしょうか・・・。

最終回は伊勢田さんの演出で見たいなぁ♪


悲劇のクライマックス  【第49話『愛しき友よ』の感想】演出:清水一彦

「近藤を助けになんか行くんじゃねぇぞ。言っとくけど、近藤の死は無駄死に何かじゃねぇんだ。やつは、薩摩と長州と土佐の恨みを、一身に受けようとしてるんだ。徳川に対する憎しみの一切を、一人で受け止めようとしてるんだ。近藤が死ぬことで大勢の命が助かる、そんなこたぁ新選組の近藤勇のほかに誰ができるんだ。本望じゃねぇのかい。」

土方からの近藤助命の嘆願を退け、近藤の死の意味を説く勝。近藤本人の心を確かめたわけでもないのに、大局の中で自らが描くシナリオにそって彼の役所(やくどころ)を決めてしまうあたりは、いかにも勝@新選組!。

 

そして、そんな勝の語りを聞いて近藤助命をあきらめた土方。以前、斎藤が言った通り、新選組の実質を作り引っ張ってきたのは土方だということは、土方自身が自覚しているはず。そうであるならば、薩長土佐の憎しみだけでなく、粛正された新選組隊士の恨みまでをも背負うべきは近藤ではなく自分であるはずなのに、それらのすべてを受け止めることができるのは自分ではなく近藤。この事実を改めて突き付けられた土方が近藤に殉ずることなく、生きて戦い続ける道を選んだ理由は何だったのでしょうか。

近藤が受け止めきれなかった恨みを受け止めるため?

かつて、何をやっても続かない自分を「武士への道」に引き入れてくれた勇に報いるためには、「武士としての道」を走り続ける以外にないと考えたため?

そもそも流山で身代わりとなって出頭しなかった時点で、彼のなかには近藤に殉じるという選択肢はなかったのかもしれません。

 

「慶喜は生き延び、おかげで兵士たちの徳川に対する恨みのはけ口がなくなった。そん役目、近藤さんにお願いしもんそ。」

有馬からの近藤助命嘆願を拒絶する西郷。官軍の指揮官としてはある意味当然の判断ですが、この短いシーンにはそれ以上に西郷という人物の哲学が描き込まれていたように思われます。

竹馬の友、大久保と成し遂げた明治維新を仕上げるため、維新後の様々な矛盾を西南の役のなかで一身に引き受け、歴史の表舞台から去っていく西郷。近藤@新選組!が、その大局的意義をどれほど自覚して自らの最期を迎えたのかは別として、少なくとも西郷は強い自覚のもとに自らの最期へのプロセスを歩む男である、そんな暗示が込められていたように感じました。

 

徳川方からも官軍方からも時代の人柱となることを託され、既に命運の決した近藤。

しかし近藤本人は、身柄を預けられた家の幼い娘にたまの姿を重ね、有馬に西郷への取りなしを頼みます。そんなところがいかにも近藤@新選組!。

思えば近藤は、多くの人々から様々な思いを託されてきました。土方、山南、容保公、斎藤、永倉、沖田、左之助、平助、多摩の人々・・・。

しかし、身を賭して近藤奪還に向かって果てた捨助に象徴されるように、片思いで終わった思いも数知れず・・・それは近藤の隣に土方がいたから。周囲がどれほど近藤に思いを託そうが、土方の采配が周囲を不条理へと導こうが、常に土方に己を託してきた近藤・・・それは二人が正反対の性格と品格を持つ、無二の親友であったから。

そんな近藤の最期の言葉は、やはり「トシ」でした。

「あんたが死んで俺たちが生き残って、それでどうなる。俺たちは近藤勇についてきたんだ。残った俺たちのため、死んでいったあいつらのためにも近藤勇には生きてもらわねぇとならねぇんだよ。」

そう言って流山の陣から自分を送りだした友の、自分が死んだあとの行く末を案ずる思いが、この言葉には込められていたのかもしれません。そもそも、危なげな土方の生き方を見ていられず、自分の道へと誘ったのは近藤だったのですから・・・。

何一つ恥じることのない身でありながら命を奪われるその際(きわ)に、かつて自らが率いた組織にあって同様に命を絶ってきた山南、葛山、河合らについての述懐もなく、さりとて主君と仰ぐ容保公に向けての思いや自らの正義と薩長の非道を訴えるわけでもなく、ただ友の名をつぶやいて逝った近藤。そのことに、彼にとっての新選組とは一体なんであったのか、その意味のすべてが込められているように思えました。

 

この一年間、まさに物語に出てくる人さながらに、近藤に期待を寄せ続けていた私!

尾形俊太郎のような心持ちで観終わった最終回でした。

そして、沖田が血だまりの中から一匹の蟻を助けるシーン。

余命いくばくもない彼の命を救うために、未来ある健やかな命を投げ出したお孝の生き方に接しながら、自分は伏して死を待つしかない沖田の表情に、ギリシャ悲劇のクライマックスを見た思いです。

わがままをいえば、伊勢田さんの演出で見たかった・・・。(往生際の悪い私。)



滅びの美学ではなく蘇生のドラマ  【新選組!!『土方歳三 最期の一日』の感想】演出:吉川 邦夫

官軍から奪った酒を兵士たちに振る舞う土方。

かつての鬼の副長は、「その時歴史が動いた」でも紹介されていた史実通り、島田や尾関をして「すっかり丸くなった」と言わしめるほど部下に慕われる指揮官として、私たちの前に現れました。

近藤という光をいや増して輝かせるための闇と自らを位置づけてきた土方は、光を失って闇である理由をなくしたのち、榎本が評したように死地を求めて彷徨っていたのかもしれません。

そして、官軍による総攻撃が行われる明日は、ようやくたどり着いた最期の一日・・・。

 

一方、官軍への降伏を決意した榎本。

蝦夷地に独立国を造るという壮大な夢から醒め、自分の命と引き換えに配下の助命を請うことのみを考えている彼にとってもまた、官軍に下る明日は最期の一日・・・。

 

相克する二人の出口のない夜、初めて胸襟を開きあった二人。

榎本の語る「酪農に拠る国造り」の夢を聞かされた土方の表情は、若き日に近藤とともに黒船を見たときと同じでした。

 

「俺たちは大事なことを忘れていたようだ。」

「何をだね?」

「あきらめない、ってことだ。」

 

生きるために戦うことを決意し、そして敗れた蝦夷共和国の両雄。

榎本のその後を知る者にとっても、そうでない者にとっても、土方の死が無念ではあっても無意味な死ではなかったことがしっかりと伝わった『土方歳三 最期の一日』は、土方@新選組!の魂の救済物語だったように思えました。

 

「如何に死すべきか」という悲劇の大テーマと、「如何に生きるべきか」というロマンチのドラマを同時に描き切った三谷さんはやっぱり凄いなぁ~!